サンタクロースはどこにいるかというと、私たちの心の中にいる。なんてつまらない話はよしとくとして、現実的にサンタクロースの役割を担っているのは子どもを育てる人、つまり親である。
恥ずかしい話、私は『涼宮ハルヒの憂鬱』の冒頭の長たらしい一文を読むまで、ママがサンタとキスをすることなんて知らなかったし、ましてや自分の親がサンタクロースであることなんて考えたこともなかった。わけはないのだけど、わりと小学校4年生くらいまでサンタのことを信じてた。
○サンタは煙突から侵入してくるけど、我が家には煙突がない。換気扇しかない。
○サンタはトナカイを召しつけてソリに乗って来るけど、私の住む神奈川県は雪があまり降らないし、ほとんどの道路が舗装されていてソリは進まない。トナカイなんて見たこともない。四不像(しふぞう)みたいな珍獣だろうか?ちなみにソリで空を飛ぶなんてことはあり得ないと、そのくらいはわかってた。そこまでバカじゃない。
○煙突がないのに、どうやって家に入ってくるのだろうか?
・鍵を(違法な手段を用いて)開けて入ってくる
・壁をすり抜けてくる(なんらかのヒミツ道具を使う)
・空からプレゼントを投下、プレゼントが屋根をすり抜けて枕元に着弾する
などの方法が考えられた。
○どうして私の欲しいものがわかるのか?
○下世話な話だけど、サンタの資産はどれくらいなのか?こんなに世界中の子どもにプレゼントを配って、破産しないのだろうか?
と、サンタについて現実的に考えるほど多くの不可能や矛盾点が生じ、成長して賢くなるほどその矛盾を論破できないことがわかってきた。人は知識を蓄えるほどなにかを失うこともわかった。
小学生時分のある日、冬休みに入る直前だろうか、サンタクロースは親である、という話を友だちから聞いて、「なるほど、理に適っている」と納得した。
親なら先に挙げた矛盾点・不可能を難なくクリアできる。
そうか、親だったのか。
私がすやすや眠る深夜に忍び足で近づいてきて、私が欲しいものを置いてたのか。
そんで翌朝、なにも知らぬふりをして「え~サンタさん来たんだね!ママも会いたかった~!」なんて言ってたのか。
私は、馬鹿にされた気がして、悔しかった。
自分が恥ずかしかった。
サンタなんて……サンタなんて……。だけどそれ以上は言葉にならなかった。もしも、万が一、億が一、恒河沙(ごうがしゃ)が一にサンタクロースが本当だとして、サンタへの悪口が知れたらサンタさんはきっと悲しむだろうし、私は「悪い子」と認定されてプレゼントが貰えないどころか”なまはげ”に拐われて北朝鮮に売り飛ばされるかもしれない。「サンタは親」と言われてもなお、心のどこかでそうやってサンタさんを信じてた。
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それから15年くらい月日が経った今、もちろんサンタさんなんていないことはわかっていて、世界中のお父さんお母さんが我が子のサンタクロースであるという人間の営みに愛しさを覚える。
両親がいない子どもたちも、ネグレクトされて地獄みたいな家庭も、すべての子どもたちが、せめて今日だけは、幸福であってほしい。かつてそうであった大人たちすべてにも幸福があればいいと思う。プレゼントをあげることはできないので、こうやって文章の中で祈ろうと思う。
親は子どものサンタクロースだ。我が子の喜ぶ顔を見たくて、どんな光よりも温かい心で子どもの枕元に、あるいはツリーの下に、もしくは落窪に、プレゼントを置く。
その心の中にはサンタクロースの姿をした愛情がいるのであり、そう、やっぱりサンタクロースはみんなの心の中にいるのだ。