ある晩「踊るさんま御殿」を見ていたのだけど、あれは夕食中に見る番組ではないね。寝起きに見るものでもないけど。
と、わけのわからないことを書いたけどそんなことはどうだってよくて、私はさんま御殿などとのたまう宮殿を視聴しながらそこの主・さんまさんの喋りの文脈に辟易して途中で視聴をやめた。
というのも、さんまさんの文脈の中に男女差別的な要素が多くあったからだ。
男女差別と言っては言葉が厳しすぎる気もする。もうすこし柔らかく言えば、旧時代的な男女の偏見が多く含まれていたのである。
たとえば「家庭的な女性」とか「男はそう思うものだ」などである。
昨今、ジェンダーレスの動きが社会で見られる中で、公共の電波を使って上のような発言をされると、見ているこっちがハラハラしてくる。
炎上するのではないか。
だけど残念ながら、まだまだジェンダーレス思想は一部の世代であり、日本を支配する1950年代~70年代生まれの旧時代の人間の中ではジェンダーに関する問題発言なんて問題の「も」の字も認識されないでいるから炎上はしない。よくないけどよかった。
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会社でもそうで、おもに40代後半以降のひとびとはジェンダーの思想に疎い。
まだまだ平気で「女はうんぬん」「男はうんぬん」と語る。なかには柔軟な頭脳を持っている人もいるけど、そういった賢い人は孤軍の域を出ていない。
一方で若い世代はそういった発言は慎んでいるように見てて感じる。いまや「性別」の話題は「政治」や「宗教」と同じように一般会話の中ではセンシティブなものとされつつある。少なくとも私の周りでは。
と、私のようにいちいち反応して話題に敏感になりすぎるのもよっぽど差別的であるから気をつけたい。
いまや、人間は見た目で性別を区別できなくなっている。
見た目は男だけど頭脳は女かもしれないし、見た目は女だけどゴリッゴリの男性器がついているかもしれないし、男でも女でもないかもしれないし、男なのに男が好きかもしれないし、どっちもいけるかもしれないし、人間ではなく無機物でしか性的興奮を覚えない人がいるかもしれない。
すごい世の中になったものだけど、それらは今まで表出していなかっただけで、ずっと隠してきたことなのだ。私たちはそれらに向かい合い、受け入れ、より柔軟で多くの人が幸福であることのできる社会を目指すべきだ。
それなのに、中年世代ときたら。
ぜんぜん現代について来ていないではないか。
彼らは驚くべきことに、令和の現代にあって、平成的でもなく昭和的なのだ。歴史の教科書か?生きた化石か?
だけどまぁ、しかたない。
今までその思想システムで動いてきたのにいきなり変えろと言われても難しい話だ。WindowsXPを使っていた人にいきなりWindows10を使えと言っているようなものなのだ。なかには使用できなくなるアプリがあるだろうし、使いこなせないソフトもあるだろう。
大切なことは寛容さだ。
私はたまたま平成7年に生まれただけでそこからの思想システムでしか動けないのであって、昭和40年に生まれていればそのころの思想システムで動くしかなかっただろうし、また、私の思想システムもあと数十年すれば古臭くなって、未来の私のような不敬な輩に「時代遅れです。死んでください」と言われるのだろう。
だから、大事なのはすべてにおいて寛容さだ。
押し付けるのもちがうし、理解しようとしないのもちがう。
この思想システムの違いには善悪がない。
時代の価値観のちがいでしかない。だから、上の世代の思想が古臭くて嫌な感じのするものでも「悪」と決めつけるのはお門違いである。
所詮善悪の区別も時代の尺度でしか決められないのだ。
寛容さが肝要だ。