今朝、すべてのものを破壊して新たなる大地でも創造してやろうかと思った。
それくらい、出勤するのが嫌だった。
なにせ、9連休明けである。
9日間の休みは瞬く間であった。
労働日の3日間くらいの長さにしか感じなかった。
休みの間は昨日のことが「さっきのこと」くらいに感じたし、一昨日のことが「午前中のこと」くらいの体感時間であった。
特になにをしたわけでもなくダラダラと過ごし、連休最終日には労働のことを思ってよよよと咽び泣いていたのだけど、そんな空白地帯みたいな過ごし方をしても休みの日の一日はあっという間であった。間(ま)にすらなってない。刹那だ。
「そんな贅沢なこと言っててもさ、正月休みがなかった人だっているんだから」なんて言う心ない人がいるので、全人類正月の3日間は安息日とされたい。
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私は、しかしながら、スーツを着てしまうと心を落ち着けた。観念した、と言った方がよりニュアンスは伝わるだろう。
どう足掻いても仕事には行かねばならないし、仕事がないよりはあったほうが絶対に良いのだ。
労働と日々。祈り、働け。諸国民の平和のために。
トランプ大統領の最近の挙動は批判の的で、イランとアメリカ両国間の政治については根深い事情もあるだろうから一概にどちらが悪いとも言えないし、もしも私が大統領だったら9連休明けの自暴自棄と腹いせにそのへんの大陸の一部を地獄の業火に包むこともやぶさかではなかっただろうと思うと、氏を批判する気にもならない。
私は神だ。
さて、昼休み。
私はお昼休みのために出勤している。昼休み中は仕事をしなくてよいからである。
お魚を食べて、喫煙所で先輩方と煙を浮かべながら、私は「生きてる」と思った。
アイコスがそれくらい美味しかったわけではない。
労働の疲労感を癒すメンソールの涼しい舌触りに、皮肉にも私は「生」を実感してしまったのである。
もしも今日、出勤せずに死んでいたら生きてはなかったのだな、と当たり前のことを新たな発見のように、新鮮さをもって感じ入った。
空はからりと晴れていて、冷たい乾いた風が心地よかった。
生きているんだな。そう思った。
私の今年の目標のひとつに、小さな幸せを見つけること、というのがある。
どこかの国で戦争が起ころうとしている今、私の見つけた幸せは、あるいはいずれ大きな焔(ほのお)となる生命の灯火になるかもしれない。
とりあえず、シンプルに生きているという実感を「幸せ」として得られたことに喜びを噛みしめたい。
とりあえず、すべてのことは、死んだことがないから死後に保障がない以上、生きていなければ始まらないし、始まらなければ終わりもしない。
明日も頑張って出勤しようと思う。
出勤しただけで、生きてるだけで、合格なのだ。
これは私のためだけでなく、皆さんのための言葉です。