幼稚園はキリシタンの系列にあって、毎朝と毎昼と毎夕手を合わせてお祈りもしたし教会が併設されていたのでミサのようなものも参加したし、讃美歌も歌った。
だから当然、学芸会で発表する劇の主題は毎年「イエスさまの誕生」であった。
なにせ幼少の時のことなので覚えていることは僅かだしストーリーは忘れてしまったけど、ささやかな記憶の一部として、イエスさま自体は登場しなかったことを覚えている。
イエスさまは赤ちゃんのぬいぐるみだった。
劇のラストはマリヤさまとヨセフさまがぬいぐるみのキリストを抱くところで終わる。
そんな朧げな記憶を、今朝、出勤前に逆十字を胸の前に切ったとき思い出した。
ああ、劇やったなぁ。
私は脇役中の脇役「町のひとB」だった。「戦士」にも「羊飼い」にもなれず、じゃんけんで負け続けた結果として大衆の一部に融け込んだのだ(念のため明記しておくが、大衆とは負け犬のことではない)。
セリフはわずかに10文字足らずで、古いアラビヤ人の庶民の格好をして、ぼそぼそ声を出した。緊張した記憶すらない。
その劇のなかでいちばん覚えていたのは、マリヤさま役の女の子のことだ。
マリヤさま役は例年、その代でいちばん可愛い子が選ばれる。
今にしてその選び方はどうなのだろうと思うけど、わからなくもないのが悲しい。主役は可愛い方が良いということは古くの物語から決まっていることだし、ディズニー映画のプリンセスが軒並み美人であることからもうかがわれる自明の理のようなものなのだ。結局のところ、可愛くなければ、美人でなければ王子に救ってもらえないという残酷なことをディズニープリンセスは笑顔で教えてくれる。
そんなことはどーでもヨセフ。
私と同い年のマリヤさまも可愛かった。
肌が白くて、幼いながらに目鼻立ちがしっかりしていて、目がとろんとしているところが微妙なバランスで魅力的だった。ぼやけた記憶なので実際どうだったかは定かではないけど。
「今年のマリヤさまはあの子だろうね」と親たちも話していた。
これは「マリヤさまにするならあの子だろうね」と意訳できる。
しかし、そのマリヤさまには決定的な欠点があった。
鼻をほじるクセがあったのだ。
鼻をほじるとき、あの子はマリヤさまではなくあの子そのものだった。
「みっともない」と園長先生が劇の指導中に言ったかもしれない。だけどあの子にとってはおかまいなしだ。あの子はマリヤさまではなく、自分自身だったのだから。
「みっともないね」と私の親も言ったことを覚えている。後日、劇を収録したビデオが配布され、それを観ていた時のことだ。
あの子がまだ生きているかわからないし、名前も覚えていないし、今会ったとして、交差点ですれ違ったとして、あの子だとわかるわけもない。
そんなマリヤさまの、あの子のことの、ただ私は「鼻をほじるクセ」だけを覚えているのだから、残酷なことだ。
自分の行いの多くは自分でも忘れ、他人にも忘れられているだろうけど、たとえば「鼻をほじるクセがあった」というようなできれば忘れていてほしい何気ない欠点や過ちを誰かが覚えているのだろうと思うと、私は革靴を口に詰め込んで死にたくなる。
そんなことを、今朝、出勤前に逆十字を胸の前に切りながら思った。
私は神を呪う。人を蔑む。