大学を卒業してから論文を読んでいなかった。
大学入学前も論文を読んでいなかったので、ふと、このままだと論文というものは大学生のうちにしか読まないのではないかと悲しくなった。
もっとも大学生の時に論文を読み漁っていたかというとそういうわけなくて、どちらかと言えば私は不誠実な読者、欲しいところだけ抜き出して読んだり引用していたのがほとんどだ。
卒論を書いたときはさすがにどの論文もじっくり読んで少しでも手掛かり足掛かりがないか参考文献まで探したものだけど、論文に対して思い出せる誠実さなんてそのくらいだ。
だいたい、論文って言葉がいちいち難しくて、辞書を引かないと読めない。億劫だ。
だけど、ラノベ調の論文があったとしてそれを有難く読んだり参照するかといえば、しないだろう。論文とはそういうものなのだ。
それにしても論文は「畢竟」とか「而して」とか「敷衍」とか使いすぎである。馬鹿な大学生にもわかるように書かないと。だけど、馬鹿な大学生にもわかる程度の論文は、それでいいのだろうか?とも思う。
結局、何が言いたいかというと、論文を読むためには勉強をしなければならないということだ。
そして、論文を読むために勉強をすることが学生諸君の勉強、なのである。
論文の一行目から見たことのない熟語が出てくる。調べる。専門用語が出てくる。調べる。と、その先でまた難しい熟語や概念が出てくる。調べる。注釈があるけど何を言っているのかわからないから参考文献を読む。その中でまたわからないことが出てくる。調べる。その繰り返しだ。
そうやってようやく一行を読むのが、論文を読む学生の誠実さなのだろう。
意外と楽しかったりするけど、レポートの締め切りがあと3時間だったりすると、泣きたくなる。コツコツ頑張れる人が何事にも勝利する。私は敗者だ。
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さいきん、言霊(ことだま)と日本について興味があって、それについて調べたいと思った。
主に、日本人が言葉というものをどのようにして扱ってきたか、日本人の精神世界に言葉はどのように関わっているのか、なんてよっぽど暇じゃないと手を出さないことに興味を持っている。
インターネッツで調べれば一発かと思いきや、実はそうではない。
「言霊」で調べると出てくるのはスピリチュアルなサイトばかりで、最終的には銀塊や勾玉を売りつけてくる。
サイトの背景が草の絡まった図柄で文字が明朝体の黒字なのでとても読みにくい。だいいち、私が知りたいのはそんなスピリチュアルなことではない。人文科学的な知識なのだ。
インターネッツの知識は膨大だけど、正しくて自分の得たい情報を得るには根気と情報取捨選択の能力が必要だ。
私にはどちらもないので、書店へ行き、言霊についての本を検索した。
而して言霊に関する論文を手に入れたわけだが、これがまた少ない。
多くの言霊本はちょっとやばそうな宗教とか極端な国学思想や右傾化に使用されていて、置いてある本棚だって「スピリチュアル・宗教」の棚だったし、そうか、言霊って商売に使うとこういう方向になるのかと勉強になった。ちなみに言霊関係のスピリチュアル本はたくさん出版されていて、みんながどれだけ願いを叶えたいのかその怨念を感じられたので、ぜひ見に行ってください。
なんとかそれっぽい論文を見つけて、帰りにカフェエで読んだ。
論文を読むのは大学卒業して以来だ。
言葉が難しくて、あいかわらず初見の読者を引き離す文体だけど、これは諸賢の読者に書かれたものだから仕方がない。
だけど、なんの締め切りもなく、読めと迫られた論文でもなく、単に自分の好奇心を満たすために読む論文は、なんだかありがたかった。
専門家の知識を──そればかりに没頭して何年何十年と調査して考えているオタクの成れの果てみたいな大学の先生の知識の総括を──たった数千円で読めるなんてお得だ。
むしょうに楽しく読めた。
内容を理解したかどうかは別として。