──最近は、残業がなかった日は帰り道ひと駅分歩くようにしている。
運動不足でいかん。そう思って歩きはじめたのだけど、その目的とは別のところで恩恵を受けていて、歩くと思考が整理され、さらに活発化することがわかった。
一歩一歩踏みだして、腕を意識的に振り、背筋を伸ばし、静かに風を切る。
直立二足歩行の悦びを踏みしめる。
いつか歩けなくなる日が来ても後悔しない。そういう心づもりで歩く。
宵の住宅街はお風呂のにおいや焼き魚のにおいがして、誰かの生活が聞こえてくる。
夜空が明るい。月だ。
空気が冷たく鼻の奥に沁み込んで、肺の奥で熱くなった血液と混じり合い、そうして全身をめぐることでも季節を感じられる。
そういったひとつひとつの何気ないことが、意識的になる。
歩くために歩いているのだ。この世界にはそういった類の悦びがたしかにあると自覚する。
猥雑なことや悩みや不安や憂鬱やアイデアや思索で散らかっていた頭の中の六畳一間が、歩くごとに整理されていく気配がある。
これはこの箱、こいつはあの棚、このアイデアは隅っこに積み重ねる、といったように、ひとつひとつの思考のカタマリが片付けられて四角くなって整頓されていく気がする。
家に帰りつくと、頭の中の掃除(ひとつひとつ捨てるわけではなくあくまで整理整頓だ)が終わった満足感と達成感と、脚の疲労も合わさって、不思議と心地よい。なんだって煩雑よりかは整理整頓されている方がいいのだ。
そうして整理されていると、アイデアは膨らみやすくなって着実に実体を帯び始めてくる。あとは書き記していくだけだという感じがする。
こういった頭の整理は私の場合歩くだけではなくて、バッハの曲を聴いてもできる。
バッハの曲は左手と右手がシステマティックに動いている印象があって、もちろん私はクラヴィーアを弾けないのだけど(弾けたらいいのだけど)、左のものは左に、右のものは右に、といった風に、時にはシャッフリングされて、思考が落ち着くべきところに落ち着いていく。
バッハの旋律は天文学的であり、数学的である。
電車の中では本を読んでいるし、仕事中は仕事をするかあるいは他のことを雑に考えていて、家に帰れば寝るだけなので、なかなか「考える」時間はとれない。思考を整理する時間はとれない。
昔は、子どもの頃は、もっといろいろな物事について丁寧に観察したり考える時間が多かったように思う。そしてよく運動して眠っていたので、自然と無意識的に思考の整理もできていたのだろうと思う。
今になって当時当たり前だったその考える、整理する、という行為そのものを意識的にしなければならなくなった。