今日は恋人とマンドリンオーケストラARTEの演奏会(ARTESSIMOⅢ)に行ってきた。
と書いて、「お~ARTESSIMOⅢに行ったんだ!いいなぁ!」とわかる人はこのブログの読者にいるかというと、おそらくいないだろう。
そもそもマンドリンてなんだよ、マンドリンオーケストラってなんだよ、ARTEってなんだよ、ARTESSIMOⅢってなんだよ、と4つの疑問が冒頭一行で湧き出たことだろう。
敷衍(ふえん)して説明すると、マンドリンという小さいギターみたいな楽器があって、その楽器属を用いたオーケストラがあり、ARTE(アルテ)とはそのマンドリンオーケストラの有名な楽団で、ARTESSIMOⅢはその演奏会の名前なのである。
XJAPANのコンサートに行った。
文脈の雰囲気としてはそう思っていただいてかなり差し支えあるけど、差し支えない。
とにかく、私と恋人が好きな音楽のコンサートに行ったのである。
曲目を見て、わかる人にはわかるだろうが、かなり贅沢な曲目だったのだ。
わからない人は「ずっとフランス料理のメイン級が提供される超贅沢コースに参席した」と思っていただいて、かなり差し支えあるけど、差し支えない。
大学で弱小マンドリンオーケストラサークルをやっていた私と恋人からすると、こんな曲目だと死ぬのではないか、と恐れるようなシロモノである。
曲自体が難しくて、サークルでやりたくても「難しすぎる。こんなの年一回の演奏会に間に合わない。5年くらいかかる。卒業もできない」と一蹴されて演奏を諦めた曲がチラホラ。
要するに、神曲揃いの演奏会なわけである。
行くしかない。で、行った。
↓
良かった。
すごく疲れた。
聴いてて、すごく疲れることってあるんだ、と思った。
聴いて座ってるだけなので緊張はしない。誰かのケータイが鳴るんじゃないかとか、静かなところでくしゃみすんじゃないかとか、そういった不安はあったけど、それは演奏に呑まれてしまえば大して問題ではない。この疲労はそういった類のものではない。
興奮に胸を昂らせ続けた疲労だ。
巨大な素晴らしい作品にふれると、圧倒されて心のどこか、言うなれば魂の一部分があの世に持っていかれたような疲労感を味わう。
これは音楽に限らず、美術や文学でもそうで、良い作品を目の当たりにすると、そのあとなんだかとても疲れてしまう。
なぜだろう?
大人数の大音量のはずなのに、力で押していくのではなくてまるで蕾が花開くかのようなふわりとしたさりげなさとそれを支える根元の太さ、音量の緩急は物語的な情緒に満ちていて一曲一曲に作曲者の血が通うかのような臨場感を持たせる。pp(ピアニッシモ)かそれ以下の音に説得力がある。そして曲がやはり良い。丸本さんの組曲『杜の鼓動』はたいへんな作品であるとしか言いようもなく唯一無二で、末廣さんの『流星群』『風のプレリュード』は華やかで体が動き出しそうだった。
生きながらにしてあの世に行けるとしたら、たぶん芸術の世界なのだろう。
きっと、私と恋人は強大な芸術にふれて魂を抜かれたから、ものすごく疲れたのだろう。草間彌生を鑑賞したときも、よしもとばななを読んだときも、魂を抜かれたようになった。
危険だから優れた芸術は規制すべきだ。頭のおかしい独裁者がこのことに気付いたら、そう言うかもしれない。
危険なほど優れているのは、素晴らしい芸術を感知できる人間の魂そのものなのだ。
愛する人とあの世に行けて良かった。