文章にはにおいがある。
「蟻迷路は頭のおかしいことを書いておけばウケると思っているから無視しよう」そうおっしゃる有象無象の声が聞こえるけど、まぁ、ちょっと読んでくれ。例によって感覚的な話だけど。
文章にはにおいがあるなり。
書いた人の、においがあるなり。
それは文体とも言い換えられるが、文体、と断言するにはいささか感覚的なことで、もっと特有の呼吸というか、型というか、リズム感というか、なんだろう、なんなんだろうね。雰囲気?見た目じゃない何かのようで見た目の何かでもある、文章全体から漂うものなり。
書いた人のみならず、時代のにおいもある。
明治時代の文章には明治時代のにおいがあり、昭和初期には昭和初期の、戦後には戦後の、平成には平成の文章のにおいがある。
江戸時代のにおいがあり、平安時代のにおいがある。
その時代の文章にはその時代の文章にしか出せない雰囲気のようなものがあり、それこそが文章の時代性を表出している気がしてならないのだ、私は。
もっと具体的に、その時代の文章を読むとどういうことになるか例を述べるならば、そうさな、その文章を読むとその時代の活気や街のにぎわいやあらゆる感覚が、明記されずとも漂ってくるものなり。
それこそが「におい」で、その「におい」はその時代の文章にしか出せない。
なぜなら、書いた人がその時代の人で、その時代の文脈の中で生きていて、それが文章に染み出ているからなり。
と、ここでさらに論をかためるために具体的な文章の例を出してもいいのだけど、まず一にそれは面倒くさいのでやりたくないし、一部を抜粋した具体例を挙げたところで納得されるものではなく「におい」は文章全体から漂ってくるものであるから抜粋は難しく、たとえ時代ごとに似たような文章箇所を見つけ出そうとしても私は浅学の輩なので良い具体例を抜き出すことができない。
この世の物事にはあらゆる理由で断念せざるを得ないことが多い。
それにこれは論文じゃなくて、勝手好きに論拠の乏しい妄想的なアイデアを書き連ねるだけのブログなり。許してほしい。神さま。
と、言い訳を満足できるだけ書いたので本題に戻ろう。
この「におい」はどうしたって自分の生きている今の時代のものしか習得できない。
タイムスリップして室町時代で30年くらい暮らせば室町時代のにおいを習得できるかもしれないけど、ドラえもんがいないから無理な話。
令和の作家が江戸時代を舞台にした小説を書いたところで、たしかに街の賑わいや活気を江戸時代を再現して書くことはできても、それは映画のセットのようなもので、賑わう人々はエキストラみたいなもので、江戸時代を包み込んでいるにおいの文脈までは再現できない。
読む側としても「これはセットだ」という感を心のどこかで抱いているはずなり。
抱いてない?
抱いてないなら、まぁいいけど……。
これはあるいは悲しいことかもしれないけど、喜ばしいことでもあるなり。
なぜなら、令和のにおいの文脈は、今を生きる私たちにしか書き出せないものだから。
ゆえに、昔の本を読むのもいいけど現代の本も読むべきだし、それ以上にニュースや社会情勢や世間の話や人間関係や巷(ちまた)に興味を持って、自分もその一部にならないといけない。だけど、どこか一歩身を引いて客観的でなくてもならない。そして、そういったことは時代を生きていれば、時代の奔流の中で自然と身についている宿命的なものなり。
こうやって「なり」を連発してもこの文章が江戸時代にならないのは、文体や内容や文章を構成する要素の中から漂い出す「におい」のせいなりよ。