帰ったらスパゲティを茹でよう。トマトソースを作ろう。私はそう思った。
トマトソースというものは、料理をしない人にしてみたらなんだか難しそうに感じられるものだが、実はとても簡単である。
と言っても、私は何かレシピを見て作ったわけではなくて、その昔母に聞いただけだ。
「トマトソースを作ってみたいのだが」そうLINEで訊くと、母は熱っぽくならずに「やってごらんなね」って文調で答えてくれた。
「トマトをいくつか買ってきたら、まずは洗う。洗ったらぶつ切りにする、潰すくらい切る。ニンニクと玉ねぎもみじん切りにする。フライパンにオリーブオイルを温めて、ニンニクとたまねぎをやわらかくなるまで炒めたらトマトを入れて、弱火で煮込む。水分はトマトから出るので充分だから、足りないようだったら水を足してね。塩・胡椒を好みの量入れて、コンソメをちょっと入れると美味しくなるよ」
私はこれだけを聞いて、あとは勘でトマトソースを作ったが、それっぽくなったので、以来、このレシピを忠実に、柔軟に守っている。
トマトソースを煮込むことは、なんだか生活をしている感があって心地よい愛着がある。
シンプルな素材がひと鍋に煮込まれてぐつぐつ音を立てているのを弱火で見つめていると、ああおれはちゃんと生きてるんだなって確かな気持ちになる。
おれはこれからこれを食べるために生きるのだ。生きるために食べるのだ、と丁寧な気持ちになる。死ぬのではない。生きるのだ。文化的な生活をするのだ。敬虔な気持ちにさえなる。
時間をかけてトマトソースを作ることは、なんだか祈りにも似ている。
(アップで撮ったらグロ画像みたいになった)
こうしてトマトソースができたので、余熱で蓋をして、その間にスパゲティを茹でる。
スパゲティの茹で方は結局のところ『水曜どうでしょう』の大泉洋のやり方に収束する。そこから学ぶべき点は多くある。
(水曜どうでしょう アラスカ編より)
大泉洋は「スパゲティを茹でるときはいっぱいの水で、塩を入れます。海水くらいの濃さが目安です」といったようなことをのたまって大量のスパゲティを茹でるのだが、麺の量と茹で時間さえ気をつければ彼の言っていることは、正しい。
なぜなら、やってみればわかるが、大量の水と海水の濃さで茹りゆくスパゲティたちはとても楽しそうだからだ。
沸騰したお湯にスパゲティをさっと撒き入れしばらくすると、くにゃりとなった麺が不思議と踊り出す。
菜箸で麺たちを遊ばせてやる。
鍋いっぱいに広がったり、ひとつにまとまったり、絡み合ったり、菜箸に猫のように絡みついてきてなんだか愛らしい。湯の気泡に体をくねらす姿は美しくすらある。
野生のスパゲティたちも、あたたかい海でこのように交わい、踊り、ときどき波に身を任せたり、夜に浮かぶ緑色の月を眺めたりしているのだろう。
遠い平行世界のワイルド・スパゲティたちの青春に思いを馳せる。
(茹でてるときのスパゲティを写真に撮ったら抽象画みたいになった)
スパゲティの茹で時間ははたして難しい。
ソースにからめる時間を考慮すると、やや固めで湯から上げてやるのがよろしい。
そうしてソースにからめてやって、皿に盛る。
トマトソース作りすぎた。
麺が埋まった。
でも味は美味しかった。
バジルがあったら気が利いてたな、と次回への反省にする。
トマトソースを今まで何度も作ってきたけどバジルを入れたことは一度もなくて、毎回「バジルがあったら気が利いてる」と批評している。
料理とは登山によく似ている。
ひとつひとつの行程を踏んでいくことで料理はできあがり、テンポよくやれば、着実にやっていけば美味しくできあがる。見晴らしの良い頂上へたどり着く。
ただ、登山が山頂に到達して終わりではなく、下山しなければならないことと同じように、料理は片付けをしなければならない。
これが面倒くさい。
さらに厄介なことに、片付けをしないと悪臭を放ち不衛生だし、洗い物が溜まると心が荒み、やがて生活が荒廃し、人生が腐る。
だから片づけをしなければならない。下山しなければいけないのと同じように。