町田康さんの講演会に行くのはこれが二度目で、前回の講話もたいへん興味深く、勉強になったので今回も楽しみにしていた。
結論から言えば、今回もやはり勉強になったし、興味深かったし、楽しかったしおもしろかった。
90分という時間は使い方によって10分にも900分にもなるちょうど絶妙な時間設定で、私はこの講演会を10分で終わったんんじゃないかと錯覚した。でも気付いたらA4レポート用紙5枚分のメモを取っていた。
大学生のとき90分授業だったのだが、おもしろい講義はやはり10分くらいの体感で終わるのに、だらだらした講義は900分くらいに感じる。退屈だし眠いものだ。映画にも同じことが言える。
町田さんの教室はおよそ100人くらいが座れる広さで、9割くらい席が埋まっていた。人気の作家なのだ。人気の作家になりたいものだと思った。
現役小説家、それも今や日本の文壇を牽引する作家の生(なま)の話が聞けるとなるとそれだけの集客力があるのだ。
私が町田康さんの作品を初めて読んだのは大学の講義で、テクストを題材にして文体研究がされていた。不勉強だった私はそのときはじめて町田作品を読んで、「こんなことがあっていいのか」と衝撃を受け、それから氏の小説やエッセーを読み漁った。
誰にでも書けそうなものだけども、実はとても計算された文体で、軽くてリズミカルな文章にもかかわらず時折難しい語句が紛れていてそれもまた計算のうち、勢いがある文体なのに書くべきところを的確に書く抑制された文章であって、いざ真似をして書こうとしても半端な勉強と練習では到底及ぶものではない。と、こんな風に私ごとき若輩者が批評じみたことをするのも大変烏滸がましく申し訳ないので、文を消そうと思った。勿体ないので消さんが。
はちゃめちゃな展開をする小説が多いけど、その実は展開に対してとてもフェアで論理的、不思議な説得力があって天地が翻る展開でも「まぁ、そうなるわな」と思えてしまう。内と外とのその矛盾がまた不和を生んで、がんじがらめにする。それへのどうしようもない怒りや諦めみたいなものがある。
こう書くとなんて怖い作品だろうと思われるだろうが、読んでみると可笑しくてたまらない。
はっきり言って、爆笑して読めないくらい面白い。
音読すると呼吸困難になる。電車の中ではとても読めない。それくらい可笑しい。
だけど、読み終えてハッピーな気分にはならない。町田作品を読み終えたときにしか味わえない、どーんと沈んだ気分と笑いによる身体の疲労と、なぜかすがすがしさがある。長距離泳を終えたときのような感じになる。長距離泳をしたことはないが。
町田康さんは、私がとても尊敬する作家なのだ。
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作者の作品に通底するのは「笑い」だ。
その笑いとは、文芸表現全体にかかる笑いである。
この笑いの正体について、私はなんとなくわかっていた。それを実践できるかどうかはともかく。
その「なんとなく」をこの講演会で町田さんが言語化してくれて、「理解」から「了解」と腹の一段深いところに落ち込んだ気がした。そのせいかよくわからないけど、帰りにすごい腹を下してしまった。
ここであえて講演の細かい内容について触れないのは、私が町田さんを本当に尊敬しているからだし、町田さんの作品を「おもしろい」と言って爆笑して読むことのできる当日集まった読者の方々を信頼しているからである。
andymoriを好きな人、スピッツが好きな人、くるりをよく聴く人と同じくらい、町田康さんの作品を爆笑する人のことは信頼できる。
同じく私が尊敬してやまない村上春樹氏の読者はなぜかちょっと信頼できない。