蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

バレンタインデーと失われた日

  人ができるまで、バレンタインデーとは「そわそわの日」以外のなにものでもなかった。

 

 とくに高校生の頃はバレンタインデーのたびにそわそわしていて、下駄箱のロッカーに扉がついているのは、女子が意中の男子の下駄箱にこっそりチョコを入れるのが恥ずかしくないためであると信じていたくらい、私は思春期のケモノ然としていた。(実際には部外者の変態が女子の革靴を盗む事件が勃発したために扉が設置されたらしい)

 

 だけど、いくらそわそわしてもいっこうにチョコは貰えない。

 なにせ私は女子と手を繋いだこともなければ会話もしたことないくらい奥手で、要するに絵に描いたような童貞だったのだ。

 そもそも関係性のない男子に女子が心寄せるわけがないのだ。思春期のケモノだった私は、そう客観的に自分を見ることができず、無駄にそわそわして、放課後あえて教室に残って同じく奥手だった友だち(関係ないけど今は無職らしい)と馬鹿話をしたり、黒板に世界史の用語を書いて知的アピールをしていた。死ねばいいのに。とっとと帰って勉強でもしていたらよかったのだ。

 友だちの一人がジャニーズみたいなガチの光源氏みたいなイケメンで、クラスどころか学年、というか学校中の女子から菓子を貰うのを間近に見ていて、自分にももしかして可能性があるんじゃないかと期待していたが、お門違いも甚だしい。あの頃の自分を愛してやりたい。

 

 結局、毎年クラスの女子が全員に配って回る薄い義理の菓子だけを貰って、学校中の女の子からチョコを貰う友だちを傍目に、惨めな思いを抱きつつ夕暮れの寒空の下、自分の影を踏んで帰った思い出が青春のバレンタインデーのすべてである。

 

 

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 大学生になると、これまでの経験からバレンタインデーに甘い思いをすることは不可能であることをわかっていたので、余計なそわそわもなくなり、いたって平常心で過ごせるようになった。

 サークルの女の子から義理を貰って、ありがとー、みたいな、人間関係を円滑にするためのバレンタインデーの社会性を理解し、期待をしなくなった。シンプルにチョコを貰えて嬉しいな、ってくらいで、ホワイトデーのお返しは面倒だけど誰かのためにお菓子を選ぶのは楽しくもあって、これはこれでいいものだなと、要するに私はちょっと大人になった。

 だけど心の中では、だいたいバレンタインデーにお菓子を配るというのは広告代理店が菓子業界の金儲けのために考えた「手段」にほかならず、市民の純粋な気持ちを弄ぶ意地汚い商売根性で我々はその犠牲になっているだけなんだ、と相変わらずチョコレートを溶かすほどの熱量をくすぶらせていた。

 こんなことだから、私はバレンタインデーとほぼ無縁な人生だったのだろう。

 

 

 だけど現在は本当に平常心だ。

 というのも、大学生の頃に現在まで付き合っている恋人ができて、バレンタインデーに一切の関心がなくなってしまったのだ。

 私は恋人から貰えれば満足だし、恋人から貰えなくたって構わないと思っている。彼女がいてくれれば大満足なのだ。

 今年なんて、今日の昼頃までバレンタインデーのことを忘れていて(作業書に日付を書いて気付いた)、そういえばバレンタインデーなんてあったな、世間のバレンタインデーも下火になってきたんだな、と思ったけど、単に私がバレンタインデーに一切の価値を持たなくなったせいだった。

 

 これからは一生、バレンタインにそわそわする日は来ないし、惨めな思いをしなくてもいいのだ。

 彼女が私に寄り添っていてくれる限り、バレンタインデーは永久に失われた。