さいきん、私はわけのわからない怒りに身を焦がしている。
なぜ?
わからない。
ただ、ふとしたときに叫びたくなったり、駅のホームで転げまわったり、海に投身したくなる。セックス・ピストルズみたいに歌いたくなる。レジの女をぶん殴りたくなる。
街にはヤバい人がたくさんいる。
実際に叫んだり、駅のホームで転げまわったり、海に投身したり、歌いまわったり、店員をぶん殴る人がいる。
「まぁ、そうしたくもなるよな」
そう納得してしまう、同情してしまう自分が怖い。
なにか一線超えてしまったら、黄色い点字ブロックの外側に足を踏み外したら、私もヤバい人になってしまうのだろう。
だけど実際にそうなっていないのは、まだ理性的で怒っている自分を分析できているからだ。危ないぞ、と心の中の自分が言う。お前がそうなってしまったら、失うものは自分だけではなくなるんだぞ、と抑えてくれる。
そうして心の中でひとしきり怒った後に訪れる時間は夕凪の海辺のような茫漠とした果てしのない虚脱感で、波に音はなく、闇雲に深くて救いも慈愛もなくひたすらに冷たい。
その温度に触れていると、気がおかしくなりそうになる。
いっそ死んでしまった方が、なんて悲劇のヒロイズムに酔いしれている自分がいて、こいつこそ悪だと刺したくなる。
誰かが言った誰かへ向けた悪口や、批判が、自分に走ってくる。
私は自分へ刃を向けることもできず、誰かの悪意に曝されたいとすら考える弱虫だ。
この一連の、言うなれば躁と鬱のような繰り返しの中で、自分はどうすればいいのか、なにに実感を持てばいいのかわからなくなって、闇雲に闇雲になる。
怒りはついにどこへ向かうのかというと、政府や人類や思想へ向かう。
マクロな対象は私がどれだけ独り言で銃弾を放ってもびくともしない。
その我が身を砕く特攻の残片が蠢いて汚い。
なにに怒ればいいのかすらもわからない。
みんな死ねと思う。
すべてがどうだっていい。
この世は仮の世で、誰も幸せになる権利なんてなくて、勝手わがままで下劣なんだ。
そんな話を恋人にちょっとした。
彼女はただ、うん、うん、と聞いてくれる。
私が言葉に詰まってしまうと、黙っていてくれる。
自分が情けない。
いっそ私を怒って、私に呆れてくれたらどれだけいいだろう。そう思えてしまう本心に情けなくなる。どんどん自分を嫌いになっていく。
カフェの店内は、昨今の流行病のおかげで空いている。空いててラッキーだと私は思う。不謹慎で自分勝手なのは私だ。
いったい何が悪いのだろう。
誰が悪いのだろう。
私はなにに怒っているのだろう。
私が黙り込んで、彼女も何も言わず、私を見つめている。
なんだか泣きそうな顔になっている。
すると彼女は、ため息をついて、言った。
「せめて私といるときは、幸せだといいのだけど」
その声は怯えたように震えていたし、勇気を出したようにも震えていた。
私はマクロなことに目を向けすぎていて、たとえば生活の実感であるとか、小さな幸せとか、恋人と日曜日にカフェでお喋りできることとか、ミクロな自分の半径1メートルの世界を蔑ろにしていた。
逆に言えば、そこから目を背けていた。
自分自身にある、自分が原因の怒りを無駄に昇華して、マクロなものに怒りをぶつけていた。
弱い私をちゃんと見つめてあげる優しさを持っていたのは、彼女だった。
その眼差しに、声に、目が覚めていくような、朝日の美しさのような、細胞の瞳孔が開くような、たしかな実感があった。
恋人と手を繋いで街を歩いた。
ソフトクリームを食べて、そのあとまた街を歩いた。
幸せだった。
なにを悩んでいるんだろうおれは。
手に握った実感を抱きしめること。そこから伝わる温もり。心の安らぎ。それだけが確かなものなんだ。
自分の中にある自分が、自分なんだ。
自分を愛すことは恋人を愛することだ。
恋人を愛するように自分を愛そう。