肺炎が流行しているし、肺炎の思い出でも書こうかな。
人生で何回か肺炎に罹ったことがあって、一度は生死の境をさまよったこともあるらしい。
あるらしい、なんて伝聞で書いたのは、生死の境をさまよったのが生後数か月のことで私はまったく覚えていなく、母から聞いた話だからだ。
赤ん坊の私は近所でも評判の可愛らしい吾子(あこ)であったらしい。
おばちゃんたちからもてはやされて、可愛がられ、モテモテだったそうだ。思えばこのときにモテ期は終わっていたのだろう。
その可愛がってくれたおばちゃんの一人が、風邪をひいて私に会いに来たらしい。
母は「風邪ひいてんなら会いに来んなよ。赤ちゃんに伝染(うつ)ったらどうすんだテメェ」と、逢瀬を拒絶したが、おばちゃんは強かった。
「大丈夫よ(笑)」
おばさんは大丈夫だったが、私は大丈夫ではなかった。
それから数日後、詳細な経緯は知られないが、私は入院し、細い腕に点滴を刺され、マジで危なかったらしい。
母は泣いて、眠りもしないでずっとそばにいたという。そりゃそうだろう。やっと生んだ長男が呆気なく死にそうなのだ。
一方で父は、私の無残な姿を直視できず、また自分も肺炎に罹るのが怖くて、病室には一度も入らないで、廊下で泣いてたらしい。反面教師たる父らしい。
今こうしてブログを書いて、ついでに世間に恥を掻いていれるわけだから私は死ななかったわけだが、このご時世、肺炎で死にかけた思い出を書いていられるなんて世間に配慮を欠いている、あの頃死んだ方がよかったのに、と思われるあなたも傷つく人の想像力を欠いている。
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肺炎の思い出ふたつめ。
高2の冬だった。
1か月くらい謎の咳が止まらなくて、近所の怪しげな女の運営する内科で貰った気管支を拡げる吸引器を手放せなかった私は、それを友人たちの前でさながら禁断症状の出た薬物乱用者のごとく中の粉末薬剤を吸引する芸で笑い転がせていた。
咳をしすぎて肋骨が痛かったし、ずっと頭がぼうっとしてたし、体中が痛かったのだけど、それ以上に思春期の男子高校生特有の「鬱」に心が参っていたので、肉体の問題なんて英語の整序作文や少年のてつがくてきめいだいに比べたら大した問題ではなかった。
高2のときの担任は現代文の女の先生で、ぼそぼそと喋り、暗くて、生徒からの人気は皆無だった。
だけど、私が日直日誌に読んだ本の感想を書いたら、翌日赤ペンで「これは私も読んだことがあって云々」と書いてくれて嬉しかった。日直日誌にまったくその日の教室の様子や授業のことを書かなくても注意されなかったのは、私くらいだろう。
私の詠んだ短歌が斎藤茂吉の短歌賞かなにかで優秀賞を得たときにいちばん喜んでくれたのは先生だった。
生徒に人気はなかったけど、べつに悪い人ではなかったように思う。
昼に仲間たちと弁当を食べていたら(当時の私は昼に豆腐だけを食べるのが格好良いと信じて疑わなかった)、校内放送があって、なにやらぶつぶつ呟いている。
なんなんだろうね、と笑ってそれで終わりにしてしばらく談笑していたら、先生が慌てた様子で教室に走ってきて、今までで一番大きな声で私を呼んだ。
「荷物をまとめて、こっちに来なさい!」
あの放送は、先生のものだったのだ。
私は言われるがまま荷物をまとめ、ついに放校処分か、と仲間に別れを告げ、スキップして教室を出た。
「あなたは、肺炎です」
先生は詰として言った。
数日前にあまりにも咳が止まらなかったので、あの怪しい女の経営する内科に検査してもらった。その結果がたった今出て、母が学校に連絡し私を呼びだしたというわけだ。
母は30分くらいして車で迎えに来て、私はドナドナよろしくそのまま病院へ直行、肺炎の薬を貰い、数日床に伏せた。
ウィルス性肺炎は周囲に感染する恐れがある。
仲間がだれか被害を受けてやしないかと不安だったが、幸運にも病巣は私だけで済んだ。
以上、肺炎の思い出。
これ以上はないし、これ以降もないことを願う。
おばちゃんや先生や皆が息災であればなによりだ。