蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

月の孤独

  沖縄旅行から帰りの飛行機に乗っていて、明日からの仕事を思ってひどく憂鬱になり、そこらの座席を蹴飛ばして足の骨を折りたいとやさぐれていた矢先、小さな窓から、厚い雲の上に浮かぶ月が見えた。

 雲の上の静かな空で、月は雄大に、けれど寂し気に、煌煌と佇んでいた。

 

 満月だろうか。ともかくそれに近い丸さだった。

 月明りはまっすぐ私を差していた。ボーイング旅客機の翼に落とした月光は、触れたら手を切ってしまいそうなほど鋭かった。鋼質で、まっすぐで、迷いなく正直だ。

 

 雲の上の月は、誰の目にも触れない。

 街の人々は今宵の月がどれほど丸いのかも、大きいのかも知らないで傘を差している。

 悲観的なほど広いこの空の中で、月はただただ独りである。

 その月を、おなじ雲の上で見つめている私もまた、孤独なようだった。

 隣には恋人がいる。前の座席には私たちと同じように東京へ帰る観光客がいる。マスクを着けた客室乗務員が目だけで微笑んでいる。機内放送で首相が伝染病について国会で演説している。

 エンジンが空を切る音が私と月を二人きりにする。

 

 人は誰もが孤独だ。そう思うものだ。

 恋人と愛し合っていても、完璧にお互いのことは理解できない。私の苦しみや喜びを恋人は私自身のように感じることができない。私もまた、恋人の苦しみや喜びを彼女自身のようにはわからない。

 自分自身ですら、理性の自分では本当の自分のことを理解しようとしないし、そもそもこれは「理解」という言葉の次元ではないものだ。

 私たちは抱きしめたくなるほど孤独なのだ。

 厚い雲の上に独り浮かんでいる月を見つめながら、光の影がすこしずつ傾いていくのを感じながら、そう思った。

 

 だけど私は、決して悲しくなかった。

 言葉で繋がることを選んだ私たちの孤独はもはや救い難いものになってしまったのかもしれない。

 だけど、救おうとすることはできるのだ。

 わかろうとすることはできるのだ。

 感じようとすることはできるのだ。

 私たちは孤独であるがゆえに、お互いを救い合おうとすることのできる愛しい動物であるのだ。

 たとえ相手のことを100%は理解できなくとも、理解しようと試みたり、苦しみに寄り添ったり、自分のことのように喜ばしく思うこともできる。

 孤独であるがゆえに、相手の孤独にすこしでも温もりを与えることができる。

 

 そうあろうとすることが愛だと思う。

 綺麗ごとかもしれないけど、綺麗ごとの何が悪いのだろう。綺麗な方が美しい。ドブネズミみたいに美しくありたいことだって、綺麗ごとなんだ。

 

 私たちは孤独であるがゆえに、繋がっている。

 孤独であることこそが共通の繋がりなのだ。

 

 

 東京に帰るまでの憂鬱な空の上で、なんだか月に救われた。

 寝息を立てている恋人の手に、そっと左手を重ねたかったけど、寝ているのを邪魔しては悪かったし、そんなの出来すぎていると思ってやめた。