村上春樹の『1973年のピンボール』を久しぶりに読み返した。
登場人物たちと自分がいつの間にか同じ年齢になっていた。
この小説について語るべきことはいくらでもあるけれど、この小説について私が語ることのできる部分ははたして少ない。要するに私のヤワな思考と言葉では説明できない、素晴らしい小説なのだ。
登場人物たちと同じ年齢になったからこそ触れた琴線があったのだろう。
特に物語終盤の「スペースシップ」と呼ばれる伝説のピンボールと邂逅するシーンは自分にとっても深く懐かしくて、悲しいシーンだった。
つまるところこのシーンは「青春との決別」であるからだ。
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さて、ピンボールと聞いて思い浮かべるのは「あの」ピンボールだけど、はたして本物のピンボールを遊んだことのある若者はどれくらいいるのだろう。
私が遊んだことのあるピンボールは、商業施設内の「懐かし横丁」的な昭和の街角をモチーフにしたフロアの片隅にあるレトロゲームばかり並べたゲーセンの隅っこで引退後の余生を楽しんでいた骨董品みたいなピンボールと、昔のWindowsに標準搭載されていた3Dピンボールだけだ。
3Dピンボール、小学生か中学生のときにハマって、点数を忘れたけど取り返しがつかなくなってやめられなくなるくらい遊んだ覚えがある。
Windows10になって標準搭載されなくなってから遊ばなくなったけど、それでかえって良かったような気がする。
いまもあったら取り返しのつかない時間を3Dピンボールにつぎ込んでいたかもしれない。3Dピンボールではなくマインスイーパーで時間を虚無に棄てたことのある男なのだ。
今だってその気になれば3DピンボールをWindows10にインストールすることはできるのだろう。方法を調べればサイトがいくつも出てきた。3Dピンボールじゃなくてもっとスリリングでサプライズなピンボールゲームが手に入るかもしれない。
だけどそうしないのは、なんとなく自分でもわかっていることがあるからだ。
それは、たぶんあの頃のようには熱中できないだろうということ。
『1973年のピンボール』で主人公が「スペースシップ」との別れをゲームセンターが取り壊しになったことで無惨にも呆気なく、そしてどうしようもなく経験したように、私はOSのバージョンアップで3Dピンボールとの別れを済ませたのだ。
今再びプレイしてもあの頃のようにわけのわからない熱中には至らなくて、「懐かしんで遊んでいる」自分を切り離せないだろう。
青春との決別とはそういうことなのだ。
私にとって3Dピンボールは青春でもなんでもなく命がけでもないものだったけど、それでも、その程度のものでさえ「決別した」という悲しみが淡く光っている。川底に捨てた丸くてきれいな宝物の石のように。
『1973年のピンボール』を読んでから、私にとっての青春との決別はなんだったのか考える日々。
24歳から25歳にかけてはつまりそういう年齢なのかもしれない。