依然、コロナの影響で恋人と会えない日が続いている。
と言っても2週間半会えてないだけなのだが、そのダメージは2週間半でも計り知れない。
私に遠距離恋愛なんて無理だとわかった。もしも地方に赴任することになったら会社を辞めよう。喜んで辞めよう。
不要不急の外出を控えているけれど、恋人と会うことは不要不急の用事じゃない。必要至急必要十分火急を要する用事である。恋人に会うために私は生きているのだ。
だけど、デートを自粛している。
デートを不要不急の用事と見做して会わないのではなく、今はお互いを大切に想うがゆえに、会わないのだ。恋人を愛するように、私は彼女の周りの人間を慈しむ。
どうか、私の恋人と友達と家族が無事であってほしい。
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先日の休みに、恋人とビデオ通話をした。
映像は荒く、途切れがちになることもあったけど、お互い顔を見ながら電話をするってこうも素敵なものかと思った。
顔を見られるだけでホッとするというか、かたく冷えた心に温かみが戻った気分になる。笑顔を見るとなんだかちょっと泣きそうになる。元気そうで安心する。もっと笑わせたくなって変顔をする。ビデオを切られる。笑い声が聞こえる。よかったと思う。
私は恋人馬鹿だ。誇らしいほどに。
スマホの画面越しにみる恋人もなかなか趣深いものだ。
現代に生まれてよかった~。こうしてほとんどタイムラグもなく恋人と時間を共有できるんだから。しかもこれが全世界でできる。すごいことだ。
考えた人、作った人、天才だ。人間にできないことはないんじゃないかって思える。
平安時代だったら、手紙を書いて、一首歌詠んで、それを出すか出すまいかで悩み、出すと決めたら誰に頼むか悩み、投函するまでに時間を要し、さらにそれを相手先に届けるのに時間がかかり、相手が関東に流された恋人だったらたいへんな時間がかかり、返事が来るまでに物忌みで死ぬかもしれない。
そんなの耐えられない。
あの時代の別れとは、ほんとうに別れだったのだ。
だから現代に生まれて良かった。
少なくともその点だけはよかった。
だけど、画面越しに互いの表情を見つめても、まるで「会えている」かのような感覚にはなっても、そのぶんむしろ恋人の不在感は高まり、繋ぎようもない手先が行き場を失ってソワソワ宙を漂うばかりだった。
手を繋ぎたいと思う。おなじ空気を吸い込みたいと思う。一緒に美味しいものを食べたいと思う。抱き寄せたいと思う。街を歩きたい。隣を歩きたい。
平安時代よりも、万葉時代よりも、もっと前から、離れ離れの恋人たちのこの想いは変わらないのだろう。
どれだけ通信がはやくなっても、画質が良くなっても、吐息が聞こえるほど音質が良くなっても、会って触れた温もりにまさる実存には敵わないのだ。
ただただ、会いたい。それだけなのだ。