蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

おれは何を残せるだろう

  近所の道路標識の植えられたコンクリートには、猫か犬の足跡が刻まれている。

 道路標識が植えられた直後に、散歩中の犬か猫が生乾きのコンクリートを踏んづけて、足跡が残ったまま固まってしまったのだ。

 その道路標識がそこに立ったのは私が小学生のときだから、今から30年くらい前になるだろうか。ちゃんと考えたら13年前くらいだった。

 ちゃんと考えるんじゃなかった。時間の流れを感じてぞっとしちゃった。

 

 あの足跡の正体の犬か猫は、まだ存命だろうか?

 10年以上前なら、高い確率でもう生きてはいまい。

 犬だったら飼い主と散歩中の事故であの足跡を残しただろうから、飼い主はたぶん足跡に気付いていて、あそこを通るたびに「うちの犬の足跡だ」って思えていいよな。

 

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 人間はなにかを残したがる生き物だ。

 子どもを残す。遺伝子を残す。

 だけど本当は、子どもじゃなくて自分の作品を残したい。自分の力で作りだしたものを、功績を遺したい。なんかそういう気概というかパワーが本来人間には具わっている気がして、だから芸術や学問が生まれたのは自然なことだよなと思う。

 

 私もあの足跡みたいに、子どもじゃなくて、自分自身を残して永遠にしたいなぁという欲があって、それができれば最高だと思ってる。それさえできれば墓標はいらないとさえ思える。

 未来に残された私の一部分に誰かが触れて、思いを馳せてほしいのだ。

 

 で、文字って結局情報だから、「なにかを残す」という点においてはいちばん優れたものだと言える。

 文字というかたちでとりあえず遺せれば、文字を遺した媒体が朽ちても、誰かの記憶に情報部分が残っていくのだ。やがてそれはまた別の言葉に置き換えられたり、人から人へ口で伝えられるかもしれない。

 古代エジプトヒエログリフとかメソポタミア楔形文字とか、古代中国の甲骨文字とか、石や硬いものに刻まれた文字は数千年は朽ちることなく遺される。すごいことだ。

 

 だから、残すなら粘土板がいちばんいいと思う。

 粘土板に文字を刻み、焼くか何かして、地中に埋めるのだ。公園の滑り台の下がいいだろう。なんとなく。

 もしかしたら数千年後に発掘されて大きなセンセーションを巻き起こすかもしれない。

 刻む文字はもちろん日本語だけど、言語として英語と中国語も刻んだ方がよさそうだ。なぜなら、ロゼッタ・ストーンとかベヒストゥーン碑文とか有名な古代文字解読のきっかけとなった遺物には多言語で同内容が記されており、それが解読の足掛かりになったからである。

 私も粘土板を残す際は少なくとも3か国語で文章をしたためねばなるまい。今からトリリンガルになれるだろうか?

 

 もっとも、問題は何を書き記そうかということだけど。