嫌いなCMがいくつかある。
嫌いすぎてこれが流れるたびに笑っちゃう。松下由樹さんが可哀相だ。
ネオバターて。
マーガリンと表明しろ。
なにかやましいことでもあるのか。マーガリンロールと高らかに名乗れ。後ろめたいことでもあるのか。マーガリンであることに心ひけることがあるのか?
心ひけてるんだろうなぁおい。
商品自体を批判する気はないので別にネオバターだろうがマーガリンだろうがどうだっていいのだが、やっぱりCM、あれはだめだ。
虚構感がぬぐえなくて、見ていていたたまれない。
CMなんてのは、他の創作物と同じ虚構であって、広告かどうかの違いしかないので、虚構感はどうしても仕方がないし、こちらとしてもマジのリアリティを求めているわけでもない。
ただネオバターロール(フジパン)は、その虚構性がいたたまれないのだ。
「きついなぁ……」てなっちまうのだ。
「おっ!ネオバタ!」ってなるか?ふつう。
「今日もこれかよ」だろ。正しくは。
ましてや、「子どものときから食べてるけど……今日も、旨っ!(激寒変なポーズ)」って言ってるくらいだからほとんど毎日食べてるんだろ。食べさせられてるんだろ。
子どものときから毎日食べていたらなんの感想も抱かないはずだ。
たとえば自動改札機の扉が開くことになんの感動も抱かないのと同じことで、当たり前すぎて、ネオバターロール(フジパン)が朝食に饗されることに対してなんの心の動きもないだろう。自動改札機が開いて喜ぶのは電気もガスもないような未開の田舎の人たちだけだ。ネオバターロール(フジパン)の登場に喜ぶということは、その程度の情緒であるという証明に他ならない。
要するに大袈裟。歌舞伎でも見ているみたいだ。
ネオバターロール(フジパン)ってこんな、言うほどのものなのか?と疑問になるのだ。
この疑問を惹起させ購買意欲に繋げようとしているのなら大したもんだ。そうとう自信があるというわけだ。
あとこの、クサイ親子関係にも腹が立つ。
コテコテの「絵に描いたような」親子。
朝っぱらからばっちりメイクをキメ、朝食をがっつり用意している(ただしネオバターロール(フジパン)を使用している)、広告代理店の作り出した理想の母親像と、健康に育ち運動部に入っていて爽やかな汗を流し成績もそこそこよく、親友と呼べる同級生が何人かいて人から好かれるタイプでコミュニケーションをしっかりとることのできる、さもマスターベーションなんて知りませんよみたいな顔してる恋愛には疎い、広告代理店の作り出した理想の息子像・且つ社会通念の底にある世の母親たちの思い描く理想の息子像(反抗期はなく母を慕っていて尊敬していて愛してくれている息子)である。
虚構だ。
そんな、広告的理想の人物像という名の棍棒で真っ平らになるまで殴られた結果誕生した「理想の親子」──ここにおける「理想」もまた広告によって創出されている──がネオバターロール(フジパン)をさも、最も優れた素晴らしい主食、あるいは主(しゅ)が与えてくださった唯一無二の食事であるかのようにアピールをしている。
聖書か?
ネオバタのCMはフジパンの聖書なのか?
ある意味誇大広告だ。
広告的理想を詰め込みすぎていて、最低限のリアリティすらクリアできておらず、社会的に逸脱している・あるいは平行世界の日本を観ているかのような不気味な気持ちになる。
この「お友だち篇」は見ると目が潰れるので、見ないでください。見る場合は画面から5メートル以上離れた方がいいです。
(注追記:2021年8月現在この動画は見れなくなっています)
ここまで理想を突き付けられたネオバターロール(フジパン)、その商品自体が可哀相になってくる。
「このCMのラインくらいは越えてもらわないとね」と暗に言われているみたいで、私がネオバターロール(フジパン)だったら心の病になってしまうかもしれない。
期待は人を成長させるが、人を壊しもする。パンを腐らせもする。
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あまりにもネオバターロール(フジパン)のCMに対して憎悪を吐き出したので、読んでて気分が悪くなった人もいるかもしれない。申し訳ない。
ネオバターロール(フジパン)のCMを嫌いになっても私のことは嫌いにならないでください。