歯磨き粉はもはや粉ではない。
粉ではないので、練り歯磨きとか、歯磨きチューブとか呼ばれるけど、多くの場合はやっぱり歯磨き粉と呼ばれていて、これはもう慣習と言ってよく、今後も脱粉呼称(だっぷんこしょう)(語呂が悪すぎる)できないと思われる。
将来子どもに「どうして歯磨き粉は粉じゃないのに粉なの?」と訊かれて、「慣習だよ」なんて説明しても納得しないだろう。
外国人にこれは歯磨き粉です、と説明しても、?、となるだろう。そこで、「慣習で」と説明しても、私の浅い浅い英語力で説明できるとは思えない。韓国語ならなおさら説明できない。
「練り歯磨き」という名称だってなんだか変だ。
歯磨きって、行為じゃないんスか。と生意気な生徒が訊く。
「行為だよ」
「じゅあおかしくないスか。行為を練ることってできないスよね」
「できるんだなそれが」
「たとえばなんスか?練る、には目的語、つまり行為を受けるものが必要になりますよね。土を練るとか、アイデアを練る、みたいに。歯磨きという行為を練ることはおかしいんじゃないスか」
「今君の言った中に、矛盾が生じてるよ。土は物質だから練ることができるけど、アイデアは概念だから練るという本来の行為はできないよね。動詞とてそれは同じだ。いわば比喩的に用いられてるわけだ。そういったように、練る、には比喩的な修辞が多いんだ。たとえば「練馬」って地名だけど、馬を練ることができるかい?ここ、反語ね。馬を練ることができるのは哲学者だけだよ。つまりはそういうことなんだ。歯磨きだって練ることができるのが、言葉の不思議なところさ」
「なんか言ってること滅茶苦茶じゃないスか?答えになってないスよ。行為を練ることはできるのか、と訊いてるんス」
「俳句の動詞は、練る、だ。俳句を練る、なんて使うね」
「俳句の動詞は、捻る、スよ。歌は、詠む、スね」
「……」
↓
誰だ上の会話。
↓
洗面所に、使い切った歯磨き粉の空のチューブがもうずっと置いてある。
2週間以上放置されている。
誰かが捨てなければならない。歯を磨くたびに、ああこれ捨てなきゃ、と思っている。
だけど、なぜかずっとそこにある。
歯を磨いて口を濯いでしまうと、きれいさっぱり、それを捨てることを忘れてしまうのだ。
歯を磨きながら「今日こそは必ず捨ててやる」と決意するのだけど、口を濯ぐとすっかり忘れて満足した気持ちでその場を後にしてしまう。
いいかげんその日々が続いてくると「おれはもしかしてわざとこれを捨てないでいるのか?」と思い始めたが、わざとではないのが恐ろしい。そう思っていたことすらも、歯を磨くと忘れてしまうのだ。
最近の歯磨き粉には、短期記憶を抹消する作用があるのだろうか?
今日こそは捨てるぞ。
本日の一曲。