目が覚めて、ぼやけた天井に黒いシミがついていて、ああ、あのシミはきっと、あの大きさはきっとなんらかの虫だろうな、とすぐにわかり、枕元の眼鏡をかけてシミを凝視し、長い2本の触角と棘の生えた6本の脚・茶色い翅に包まれた薄い胴体がたしかにそこで呼吸をしているのを確認したとき、あなたならなんと言うだろう。
私は「おはよう」と言った。
そして、「おやすみ」と言った。
おやすみは、現実逃避じゃない。「死」の挨拶だ。殺し屋がターゲットの頸動脈を切るときに背後でそっとささやく、そういった種類の「おやすみ」だ。
なんとしてでもゴキブリを殺さねばならない。
ゴキブリはさわやかな朝日を浴びて、触角をゆらゆらと震わせていた。
気持ちよさそうに天井に張り付いてやがる。
重力に逆らって天井に鎮座しているそのさまがこの世のものとは思えない不気味さ。なんで天井に張り付くんだ。お前はどこから来たんだ。宇宙か?
だからって地面を這いつくばってほしいなんて一言も言ってないわけで、ましてやその翅を広げて宙を舞えなんて願ってもいない。それなら妥協して天井にそのまま張り付いててほしい。
ベッドから起き上がり、さっとトイレに駆け込み、ペーパーを「ここだ」と思う分まで巻き取った。
ゴキブリの殺し方で結局有効なのは「ティッシュで武装して生きたまま握り潰す」これしかない。
殺虫剤を取りに行くあいだに見失いたくないし、殺虫剤があるかもわからない。ファブリーズしかない可能性のほうが高い。たとえあったとして、中身が無い可能性も捨てきれない。中身があったとして、薬剤を噴射し、もがき苦しみながら部屋を空中旋回して、もしもTシャツの襟首から入って来て、そのままパンツの中に逃げ込まれ、処女を喪失したらどうしよう。懸念が多いなら、使わない方がマシだ。
ティッシュ片手に部屋に戻ると、某は相変わらず天井で世界を逆さまにしていた。
邪悪。
異教徒はなんとしてでも殺さなくてはならない。世界の歴史がそう言っている。
なに、まだゴキブリでよかったじゃないか。
天井に張り付いているのが生きてる能面とか人面痣とか犬の死骸だったらきっと卒倒してただろう。ゴキブリなんてただの虫だ。なんだってないさ。
己を鼓舞せよ。
潰したときの感触を一瞬でも想像しちゃいけない。ちょっと想像して背中が冷えた。
考えるだけ恐怖が増悪するので、あとはもう流れに身を任せ、殺戮マシーンとなって躊躇わず、こうなりゃあとはロックンロールと同じことさ、私はベッドに立ち、天井のそれをトイレットペーパーで包むと同時、無慈悲の咆哮をあげて、ひと呼吸もなく、握り潰した。
潰した余韻、音の感触、小エビの素揚げを噛んだときのような、あの……
……おれは殺戮マシーンだ、なにも考えないし感じない。感情なんて陳腐なものは14歳の時にブックオフに売ったんだ。
ところでトイレットペーパーは水に溶けやすく、手に湿り気を感じ、体液、と思っちまったが最後、一瞬視界が暗転したのでびっくりした。気を失いかけたのだ。
踊り狂いながらトイレに流し、手に付着した白い体液をちょっと見てしまって、碇シンジかよ、と独りで笑い、嗤い、涙が出てきた。
寝起きにゴキブリを握り潰してなにが文化的な生活だ。政治が悪い。
手を5分ほど洗い、ベッドに倒れた。
人間の生み出す最も恐ろしいものは想像である。と誰かが言っていたような気がする。
あのゴキブリはいったいどこから入ってきたのか?
まだ若そうなゴキブリだったが、もしかしてどこかに巣を作っているのではないか?
いつからそこにいたのか?
寝ている間に顔の上を這っただろうか?
口に入っただろうか?
悪夢は目が覚めたときに見るものだ。