書き終わったときの満足感は言いようがない。私は書き終えるために小説を書いているのだと断言できるほどだ。
だが小説としての完成までの行程としてはまだ半分も来ていない状態で、ここから長い時間をかけて推敲して、文章を大幅に削ったり付け足したり、あるいは内容に大幅な変更を加えたりするので、たとえば絵画だったらようやく下色を塗り終えて全体のかたちになったってところだし、胎児ならなんとなく手足が生えそろって人間らしい姿になってきた、くらいのところなのだ。
これからだ。
推敲とは自己嫌悪の言い換えに他ならない。
絶望しながら何度も何度も書き直す作業をしていると どんどん自信がなくなって、小説が面白いのかもわからなくなる。この作業は終わりが無くて、推敲に必要な才能は「ここだ」と止め時を見定める力のことだと思う。
私の場合、もう嫌だ、終わりだこんなの、と思ったときが止め時だ。こういうことじゃダメなのだろう。
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小説を書いていると、自分がなんなのかよくわからなくなる。
自分てなんだろう、と常にうっすらと考えながら文章を吐き出している。
「自分とはなにか」の答えは、紡ぎ出された文章に出てくるものだけど、なんていうか、素直に楽しんで書かないとそれは顕(あらわ)れないもので、余計なことを考えたり音楽を聴きながら作業をしていると文章に余分なノイズが混ざって、なんとなく飾られた自分がそこに出てきてしまう。
そうなったときに、初心に帰るために、私は大学1年生の時に書いた小説を少し読み返す。
5年前に書いたものである。
授業で小説を書くことになり、匿名で回し読みをして先生と学生から講評をもらう、創作の授業であった。
私が書いた小説は先生に一部分を音読され、匿名とは言えたいへん恥ずかしい思いをしたものだが、先生に絶賛された数少ない栄光の歴史を持っている。
自分でもよく書けたと思っている。
文章が軽快で無駄がなく、でも必要なところを必要なだけ書いていて、ちょっと読んだことのない文体に仕上がっている。あれをどうして書けたのかよくわからない。
それを少し読み返すと、文章を書く楽しさ、自分に素直になる事を思い出せて、筆が進むようになるのだ。
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だけど毎回「少し」しか読み返さないのは、なんだか読んでると全身がムズムズしてきて転げまわりたくなるのだ。
自分の声を録音して聴きかえしたり、昔着てたダサい服を引っ張り出してきたときのような恥ずかしさがある。
これをみんなに読んでもらっていたなんて。こんなの自慰を見せてるみたいなもんじゃないか。それで、「すごくいいよ」なんて評価されて嬉しがっていたなんて。変態じゃないか。
変態じゃないか!
だから、その小説は少ししか読まない。少ししか読めない。
このブログだって時間が経てばいずれは恥ずかしいものになってしまうので、未来の自分に恥じないよう、丁寧に書いていきたいものだ。
うんちとか おちんちんとか猥雑な話題をしないようにしたいものだ。