蟻は今日も迷路を作って

真面目な話からそうでない話まで。本当の話から嘘の話まで。蟻迷路(ありめいろ)という人が書いてます。

コンラッド『闇の奥』を(ちゃんと)再読

 っと本屋に行けてない。

 そもそも読書は通勤時間にすることが多いので、日ごろの読書量も減ってしまった。

 さいきんは土日に貪るように本を一冊読むことが多くなった。

 

 本棚にコンラッド『闇の奥』があった。

 大学1年生のとき、課題図書で購入したものだ。5年ぶりに読もうと思った。

 

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  (オウム貝の中に入って遊ぶ『闇の奥』)

 

 「5年ぶりに読もう」と先ほど書いたが、詳しく話せばそれは正しくない。

 「読む」という部分が特に正しくない。

 なぜなら5年前、私は『闇の奥』を読まなかったのだ。

 

 英語の授業の課題図書で『闇の奥』が指定された。

 やる気のない英語の授業で、日本語訳された『闇の奥』を読み、日本語で3000字のレポートを書きなさい、という課題だった。英語の授業の課題というより、英文学研究の授業の課題みたいである。

 「読め」と言われると途端に読む気が失せるのはなぜだろう。

 同じように、善意でプレゼントされた本もしばらくは読む気になれない。高校3年生の時に叔母からプレゼントされた『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んだのも結局5年後だった。

 自分で「読みたい」と思わなければ本は読めない。

 「読まされる本」ほど苦痛なものも無い。

 「読んで!読めば絶対ハマるから!」とオススメされると、お前におれの何がわかるんだ、とひねた気持ちになる。

 だから人に本を薦めるときは、「読んで!」と押しつけがましくするのではなく、「読みたかったら読んでみたら?損はしないと思う」というスタンスで薦めることにしている。

 読書は娯楽なのだから、能動的な行為でなければならない。

 

 そういうわけで『闇の奥』はちゃんと読んだことがなく、レポート課題も文庫本の表紙の「あらすじ」とAmazonのレビューだけでなんとなく予測して3000字書き上げたのだった。

 

 ようやく能動的な気持になれて、『闇の奥』のページをめくる。

 舞台は19世紀のアフリカ。アフリカ大陸には未開の地が多く残り、食人をする「土人」や猛獣が、開拓をすすめる白人たちを今か今かと川岸から毒矢でもって狙っている、恐ろしい時代だ。というわけではなく、この物語の真髄はアフリカ大陸の奥地へ向かうにつれて露わになり目の当たりにする一人の男の心の闇の話である。

 未開の部族はむしろ命令に忠実で、役に立つことは少なく愚かではあるけど主人公と友情を結ぶこともあるし、猛獣は一切出てこない。たまにカバが出てきて食べられてしまうくらいだ(かあいそう)。

 

 アフリカ大陸の冒険というよりも、ある一人の男の驚異的な人心掌握術と人間の抑えきれぬ欲望による数々の「過ち」を目の当たりにした主人公の、心の動揺と、葛藤が軽妙な語り口で書かれている。

 著者コンラッドの実際の体験をもとに書かれており、「男の語りを周囲の人間が聞く」という入れ子構造の物語にはフィクションを超えた信憑性のような説得力がある。

 人心掌握に長け、多くの部下や部族の慕うある一人の人間の、本質の欲望にまみれて目的を達成するためなら手段も選ばない残虐さとその最期の言葉を主人公だけが知っている。真実は闇の奥へ葬り去られる。

 ジャングルの木立の湧きたつような夕闇に、その深部に近付くにつれて顕れる開拓人の闇。その比例する構造がおもしろい。ジャングルから遠ざかったパリでは、人々は闇に目を向けず、表面の人心掌握の洗脳によって人間を見ている。ただ主人公だけが「闇の奥」にあるものを知っている。

 奴隷貿易象牙貿易をまるで英雄の話のように語られていた時代にこの作品が世に出たことはセンセーショナルだったことだろう。英雄の背後にある、大陸と人間の心の闇が暴かれたのだ。

 

 心躍るような冒険譚ではないし、話の前後も多く読みにくさは否めないが、たとえば身近に存在する人間に思いを馳せながらこの物語を読むと、どうやら普遍の名作であるらしいことがわかる。

 読んで損はない。