大学生の時に書いたレポートや論文の大半はパソコンに保存してある。
1、2年生の頃と比べて3、4年にもなると小論文の題名から「らしさ」が漂うになり、成長しているというより「それっぽく見せる技術」が向上したのだなと感慨深くない。
2年生の時に書いた『「五十音図の話」(馬渕和夫著)を読んで』という読書感想文みたいなレベルのタイトルも、4年生にもなれば『「樊噲」論——「物がたり」という「いつはり」——』なんて格好つけるようになっている。
私の先生は論文のタイトルを格好つける人で、「俺の書いたこのタイトルは本当に痺れる。イケてる」といったようなことをしきりに口にしていた。
私からしたらどこがそんなにいいのかわからなかったが、タイトルはハッタリになって大切であるということは影響を受け、できるだけイケてるタイトルをつけるよう工夫した。
『『春雨物語』序――雨の境界――』なんてタイトルは自分でもイケてるとおもう。
ただ、内容をしっかり読まれるとボロが出るので、あまり格好つけすぎてもむしろよくなかったかもしれない。
久しぶりに、ほとんど提出したときぶりに自分の書いたものを読み返してみる。
ひとつのレポートを書くためにいろいろ読んでいて偉い。
とにかく文字数を埋めることに必死なので、同じことを言葉を変えて繰り返していたり(説得力を持たせるためにやっているのだ、と当時は自分に言い聞かせていた)、論理が破綻することはないけども回りくどかったりして、学生が書いたしがないレポート感がそこかしこから読んで取れる。
「君はひとつのことに決めたら他の視点を失って、ばっさり切るように他の可能性を捨ててしまっている。それはたぶん人間関係とか、身の回りの出来事でもそうなんじゃないか」と卒論面接のときに先生に言われたことを思い出す。
「文章を読めば君の人となりみたいなものがわかるんだよ。君は理系だ。案外数学とか科学のほうが向いてるんだろうけど」
論理は破綻してないし自分の考えも持っているけど、君は文学的な魅力を持っていない、と暗に言われてショックだったことを思い出す。
「というか、男子はたいていそうなんだよな。女性作家のような、飛躍するパワーを持ちえない」
文章を読めばその人がどんな人なのかなんとなくわかってくる。
私も全部がわかるわけではないけど、なんとなく、書き手がなにを意図しているのか、どういうアプローチを持った人なのか、わかるようになってきた。
大学生の頃に書いたレポート類も読み返してみると、楽しそうに書いているものはすぐにわかる。苦しそうに文章を捻りだしているところもわかる。
一生懸命書いたのだな。
夢中になって、ひとつの作品を作るつもりで、図書館に篭って書いた論文は清々しく青臭くて読むに堪えないけど愛おしい。