全部が無意味で無価値でどうしようもなく見えてしまうときがある。
そういうときは心が疲れているときだ。
体が疲れているときだ。
「仕事で疲れて、くたくたになってベッドに倒れ込んだとき、この疲労感は、仕事じゃなくて、ディズニーランドで一日中遊んだから疲れたんだって思うようにしてる」
恋人がライフハックを教えてくれた。
なるほど。これはいい。
ディズニーランドで一日中遊んだ夜の疲労感は底なし沼に落ちていくような止めどないもので、充実感と心地よさがある。
仕事で疲れたときはただただ無力に苛まれて虚無を味わうので、せめてディズニーランドの疲労だと暗示をかけるだけで心にすこしだけ「遊び」が生まれる。
ビッグサンダーマウンテンの120分待ちはかなりキツかったなぁ……でも並びながらお喋りするのもまたひとつ醍醐味というか、楽しいところで、あまり苦じゃないよなぁ……なんてなことを底なし沼的ベッドに横臥しながら妄想する。
この疲労は次々と溜まっていく案件への焦燥感から来るものではないし、テキトーにしてしまった仕事の先の見えない結果への不安ではないし、ぎくしゃくした人間関係のストレスでもないし、将来への漠然とした不安と絶望でもないのだ。
ビッグサンダーマウンテンやスプラッシュマウンテンやホーンテッドマンションやプーさんのハニーハントに並び、パレードを見て、ポップコーンを食べて、一日中笑ってクタクタになった疲労感なのだ……。
そうやってちょっとずつ心に余裕を持たせて、遊びを持たせてやらないと、いつか窮屈になって圧し潰されてしまう。
心を豊かに保つと、いっさいの問題は「どうにでもなる」ものになる。
だけど心を常に豊かに保つことは難しい。感受性をいつも高めていると疲れてしまうし、才能が必要だし、妄想は実体がない。どうすればいいのだろう。
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昨日の夜、部屋の電気を消したら部屋の中がぼんやりと明るくて、なんだと思ったら月だった。
満月でもない三日月でもない中途半端な楕円の月がやわらかい光を部屋に差していた。
月の光には温度がある。あたたかくて、触れるとなぜか冷たいような温度。月の光にはかたちがある。丸くて、きめ細かい質感もある。
月が好きだ。
おれは月が好きな人間なんだ。
そう思ったら、いっさいは「どうにでもなる」ものになった。
いつも感受性を高めている必要はないし、妄想に逃げていてもしょうがないものはしょうがない。
ただ、自分が好きだと思えるものに、まっすぐな気持ちでいられることに気付くことさえできれば、喪った心を、損ないかけていた自分自身を、立ち返るように取り戻すことができる。
好きなものに正直であるということ。好きなものを好きだと自信があるということ。
そう思えるだけでありがたく、慈しみ深く、世界はすこしだけやわらかくなる。月明りのように。