蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

下駄を履こう、夏を祝おう

  は下駄を履く。

 日常的に下駄を履いている。

 近所のコンビニに行くくらいなら下駄だ。

 場所柄、海が近いのもあってビーサンを履いている人が多いのだが、それに対抗しようと下駄を履いているのだ。カルチャーは主流のカウンターから生まれるものだ。

 

 実際、下駄はいいものだ。

 カランコロンと軽快な音の耳ざわりが良くて、おそらくなんらかの癒し効果があるのだろう、落ち着いた気分になれるし、夏の夕暮れのにおいと相まって、遠い昔のどこかの田舎の郷愁のようなものを抱ける。

 秋は夕暮れ、たしかに秋の夕暮れも美しいけど、夏の夕暮れも負けてない。

 秋の夕暮れが「失われたもの」への哀愁だとしたら、夏の夕暮れは「失われゆくもの」の哀愁があり、それに下駄の音が合わさるとノスタルジックな気分になる。美しい寂しさというものがあるのだ。

 夏ほど明確に始まりがあり、終りのある季節もない。

 同じ夏は二度とこないのだ、と毎年思っている。

 下駄の音には夏特有の哀愁と寂しさがある。憂いをまだ知らない少年が心に抱く一抹の不安と予感のような季節だ。

 

 また、下駄は健康にもいいと専門家が言っていたような気がする。

 たしかに履いていて、健康に良さそうだと常々思う。

 はっきり言ってナイキに比べたら歩きにくいし、走ることも難しい。転ぶだろう。

 足の指で鼻緒を掴んで、しっかりと歩かなければならず、歩くことに意識を集中される。

 それがいい。

 やわらかいスニーカーでは感じられない足裏への刺激があり、なんだか歩いているうちに血行が良くなっていく感じがする。

 ふつうよりも疲れるが、馴れれば大したことはない。専門家が言うには、スニーカーで歩くよりもカロリー消費率が高いのでダイエットにも効果があるらしい。そんなことを言う専門家が誰なのか、果たして実在するのかは不明だが。

 

 下駄を履いていると、高確率で通行人にじろじろ見られる。

 よほど珍しいのだろう。他の人は靴というものを知らないのかもしれない。いつも裸足で歩いているのだろう。

 下駄の音にビビった犬に吠えられることもある。

 グループデートをしている頭の悪そうな専門学校生ないしは大学生にコソコソ陰口を言われたこともある。

 小学生の集団に「ギャハハ!!!」とあからさまに笑われ、去り際に「変なの!!」と揶揄されたこともある。

 それが無性に悔しくて、涙をのんだこともある。

 百年前まで下駄を履いてるのは普通だったんだぞ。そう言ってやりたい。だけど言ったところでそれは百年前の話であり、令和のTPOに即していない。

 

 もはや、浴衣も下駄も、「衣装」になってしまった現代。

 もっと暑くなったら甚兵衛でうろうろするのだが、そうすると「どこかで祭りでもあるのかな?」なんて目で見られる。

 私はあくまでも一般的な服装として下駄と甚兵衛を着ているだけなのに。

 

 現代人の衣装を着ている皆さん。そう捉えるとおもしろいね。おもしろくないかもしれない。