納豆でも食べるか、と言葉にしたとき、既に納豆を手に取っていなければならない。
私にとって納豆とは、食べるまでにそのくらいの淡い意志を惹起させるものでしかなく、「今度食べるか」などと思ったが最後、一か月以上は忘れて食べないことになる。
納豆とは反対にラーメンの場合、「食べるか」と思ったらすぐに食べないと2~3日は「ラーメン食べたい」欲望がうずうずと溜まり、3日後までに対処しなければ感情の98%が「ラーメン」に支配されて虚無になってしまうので危険だ。
納豆にせよラーメンにせよ、異なる理由ですぐに食べないといけないものだが、納豆は食べなかった場合心が壊れるということはなく、忘却をするというだけで、ねばねばと心のどこかになんらかの感情を蓄えたまま存在することになる。
その存在感は乏しく、何のにおいもしないし、色味もない。
ただねばねばとして正体不明なだけで、悪性にも良性にもならない。
しかも忘れている状態なので、普段は意識をしていなくて、ただなんとなく、なにかが足りない、なにかを食べたい気がするのだが何を食べたいのかわからない、と若干のモヤモヤを呈す。
だからスーパーで納豆を見た瞬間に手に取らないと、納豆は食べれない。
できればその次の食事のタイミングで納豆を食べなければ、納豆は冷蔵庫で醗酵し続けいずれ朽ちていく。
納豆を食べたいという感情、納豆を食べるという意志は、それほどに淡く薄いのだ。
モヤモヤも抱えたまま、納豆を開封する。その動作に至るに強烈な欲望も意志もなく、なすがままに、という姿勢で納豆には挑んでいる。ここもラーメンとはちがう。ラーメンだと「オ前ヲ喰ッテヤル!」という態度になるのだ。
薄いビニール膜に菌糸が伸び、明らかに異常なにおいが漂う。しかし、納豆の場合のみ、このにおいは正常の証で「美味しい」の証明となる。幼いころから慣習により、そのように教育されてきた。
あらためて見ると、納豆は常軌を逸した見た目をしている。
どれだけ美味しいと言われても、初めて納豆を見た人がこれをバクバク食べるとは思えない。見た目、におい、ついでにネチリと箸に絡む音、納豆の存在のすべてが生物的な本能に、細胞の一つ一つに、「食べるな」と警告を発している。
だけど、納豆を知っていればその警告すら「美味しそう」に見えるわけで、教育とは恐ろしいものだ。「健康に良さそうだ」とすら思うのだ。
納豆は練ってから調味料を入れた方が旨味成分が増すと聞く。
かの北大路魯山人は200回だか500回は混ぜたらしいが、そんな悠長な時間もないので、テキトーに捏ね、満足したら調味料を加える。
贅沢に卵黄と、刻みネギ、醤油と「食べるラー油」を垂らす。再度混ぜあげてつるつる光る白米にかけたら完成だ。
熱い米に納豆の香り、調味料の刺激、とくにネギがいい仕事をしている。香りが食欲をそそらせる。
なにがなんだかわからない味だし、納豆本来の味というものは結局よくわからない腐った豆でしかないのだが、ただ練って調味料と合せたときに爆発的な旨味を発揮するのだから不思議だ。単なる腐った豆ではないのだ。
栄養のある物を食べてる、とおもう。
いいものを食べてる、とおもう。
恵み、とおもう。
そのとき、心の底にへばりついていたモヤモヤが解消され、煙のように成仏していく感覚に至る。
そうか、お前の正体は、納豆を食べたいという気持ちだったのか、と、納豆喰って納得するのであった。括弧笑い。
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ところで納豆の洗い物ほど嫌悪感のあるものもない。
今週のお題「納豆」