蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

伝染する感情

  憎悪は伝染する。

 憎悪の書かれたものを読むと、心がぐずぐずと急速に腐って異様な熱を帯び始める。

 病原菌のように心を蝕んで急速に増殖し、自分もまた憎悪を発信するようになる。

 対象をひどく憎み、自分自身さえもやがて憎たらしくおもえてくる。

 憎悪は伝染する。

 

 自分が被害者だと、権威やシステムに対する憎悪は育みやすい。

 自分が被害者であることでさも正義の側に立っているかのような気持ちになり、憎み糾弾することは正当なことであり、吐かれる言葉には吐かれるだけの根拠があるのだという後ろ盾があるような気がして、いくらでも憎悪を振り撒くことができる。

 それは正義の行いで、被害者の悲痛な叫びなのだという、正当な手続きを踏んだ憎悪だと疑わない。

 

 そうなのだろう。

 被害者が憎悪を育んでなにがおかしいことだろう。当然だとおもう。私だってそうだ。惡は相手側にあり、自分は正義の側にいる。

 憎悪を育まざるを得ない状況なだけだ。

 そういった気持ちは言葉にして吐き出したり、訴えないと、パンクして動けなくなってしまう。なんらかのかたちで発散が必要だ。

 

 憎悪は伝染する。

 

 SNSでそういったツイートを見ると、胸が痛む。

 自分のなかで憎悪が膨らみ、息が苦しくなる。感情に任せて怒りを文面に吐き出したくなる。

 携帯電話を叩き割りたくなることすらある。

 

 憎悪は、きわめて強い力をもって伝染し、拡大し、列島を厚い雲で覆う。

 

 だが、伝染するのは憎悪だけではない。

 

   ↓

 

 なんでもない日常に見つけた小さな幸せや、不思議な面白いこと、心があたたまるエピソードによってもたらされる心の安穏のような温かい感情も伝染する。

 ただ、そういった言葉は、憎悪に比べて力の弱い言葉が並ぶことが多く、音を立てて転がるドラム缶が憎悪だとしたら、やわらかいテニスボールが温かい言葉のもつ瞬間風速的な影響力だろう。

 だけど、よく目を凝らせばそういったあたたかい平穏は日常のどこにだってあるもので、大事なのは自分の心のありようなのだろう。

 なんでもない平和、日常に愛着を持てるほどの心の余裕が無ければ、優しさは見つからないし、優しくもなれない。

 

 Twitterで、なんだか心温まる話をした人がいて、その話が本当かどうかはともかく、リプ欄も温かい言葉で溢れていて、私の心までもふんわりとした気分になった。

 ああ、優しさも伝染する。

 温かさも伝染する。

 

 壊すより治す方が難しく、温めるより冷やす方が早いことと同じで、人にやさしくするよりも誰かを憎んで自分を正当化するほうが簡単だし心が落ち着いてしまうものだが、安易に憎む心地よさを覚えて傾いてしまうのは、心の弱さに他ならないのだとおもう。

 

 もちろん、状況にもよるし、場合にもよるし、そんなことは人によるのだけど。

 

 インスタントに憎悪を膨らませてそこに自分の居場所を見出すよりか、優しさに目を向けてやわらかい空気を伝染させながら、安寧を育んだ方が人生が豊かな気がする。