「生き方を考えることと同じくらい、死に方を考えることは大事だ」
中学のときの理科の先生がそう言っていたのを覚えている。
私自身が、当時から「死」についてよく考えており、死に方、死の先などといったことに思いを馳せる時間が長かったから(スケベなことを考えるのとほとんど同じ時間考えていた)、先生の言ったことはしっくり心に残った。
死ってすごくて、全員が体験するのに、誰も経験が無い。
有史以来、死んだらどうなるのかさまざまな憶測が飛んでいて、科学的な研究が進んでいるにもかかわらず、結論は出されていない。
結局、死んでみないとわからない。
こんなことって、「死」以外にはないんじゃないか。
めちゃくちゃ身近な事なのに、本能的に退けようとしていて、民俗学的に「死」は「ケガレ」であると忌避される。
だけど全員がいずれは経験し、身近にも潜んでいて、すぐ隣の人にも訪れるもので、まったく他人事ではないのにみんな「おれは死ぬわけがない」と思い込んでいるかのようなそぶりを見せる。「明日死ぬ」と思い続けて毎日生きてる人はそういない。だいたい「死」を忘れている。生きることと同じくらい身近なことなのに。
きっとその忌避は動物的な本能なのだろう。
文化や社会が生み出した後天的な本能と言うよりも、もっと根本的な、反射的な忌避反応と言えるくらい、私たちは「死」を遠ざけている。
だからわざわざ「メメント・モリ(死を想え)」なんて言葉が生まれるのだ。
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自分は、いつ、どうやって死ぬのだろう。
ときどき考えては、ぞっとすることもあるし、不思議と安らぎのようなものを覚えることもある。
いつか死ぬんだ。いつか死ねるんだ、という不安と安堵。
どうやって死ぬのか、どうして死ぬのか、について考えることは、あまり人に言うと「暗い」とか「大丈夫?」なんて言われてしまうけど、決してネガティブなものではないとおもう。
なぜなら、死について考えることは、生について考えることと結びついているからだ。
死について考えるとき、私は生き方について考えているし、生きることを考えるとき、かならず死という「終り」が前提にある。
簡単なことで、生と死は二分された対極のものではなく、反対側に位置しながら繋がっている一本の糸のようなものなのだ。死を辿っていくと生があり、生を辿っていくと死がある。そんなイメージ。
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先生は、鳥葬(ちょうそう)がいい、と言っていた。
チベットの葬式のやり方で、遺体を切断して丘の頂に置き、やってきた鳥たちに肉を啄ばませ、天の国へ運んでもらうのだ。
宗教的な背景もあるけど、先生はそのやりかたがいちばん自然に還る象徴的な方法なんだ、と言っていた。
いままでさまざまなものを食べてきた私たちが、食物連鎖によって自然に還る。動画を見ると、解体された人肉にハゲワシが何百匹と集まって、あっという間に骨になるさまはまさに食物連鎖の象徴で、周囲の人々が歌うように念仏を唱えたり楽器を鳴らしているので、それはハゲワシにとっての祭典のようにも見える。
鳥葬はたしかにいいな、とおもった。
(リンクを載せるけど自己責任でお願いします)
私は海のある街で育ったので、できれば遺体を海に捨ててほしいけど、日本の法律では無理なので、せめて散骨してほしいと願う。
焼かれて灰になると、いまでは煙も出ないのでどこでもない空間の狭間に入り込んで消えてしまうような気がして怖い。
土葬もいいかもしれないが、遺体を盗まれる可能性があり不安。
おすすめの死を教えてくださいね。