プラムを食べる前に、しげしげと観察して「いいな」と思いを馳せてしまう。
プラムはスーパーに並ぶ前、じつは木に生っていたのだという当たり前すぎることを、つい忘れがちになってしまう令和二年。
この可愛い果物は、木に生っている。
朝、恋人がむしゃむしゃパンやプラムを齧るそばで、私は手を止めてプラムを観察する。
この果物は、すもも、とも言う。
この果物に名前を付けるなら、「すもも」以外にはないよなぁと納得の名付けである。
どことなく桃っぽいし、においも甘く桃らしい。味はすこし違うけど、甘味に酸味のニュアンスを加えて「すもも」なのだなあ。
「こもも」ではなく「すもも」なのだ。
名前も見た目も可愛いし、甘酸っぱくて美味しい。大好きだ。
この実がさ、森を歩いていて、沢のそばの木にワッと生っているのを見つけたら、きっと嬉しいだろうな。
沢の水で洗って、そのまま齧りつくのだ。
ひと口めは酸っぱくて耳の脇がきゅうと痛くなるけど、目が覚めて疲れの取れるような甘酸っぱさで、ふた口目からはほんのりと甘く桃の香りが立つ。
僕は恋人の分も採ってやって、二人で小高い岩の上に腰を下ろして、食べるのだ。
眼下には清らかな沢と深く滾るような森が広がっている。太陽は暑く、風は爽やか。
ああ、この実が木に生っているなんて、素敵なことだ、と、にやにやしながら朝、ずっと見つめていた。
恋人は早々に食べ終わり、「なにをしているんだ」と言った。私は上記のことを話した。
彼女は「そうかいそうかい」と特に取り合わず、仕事の支度を始めた。
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今朝は梨を食べた。
梨も、木に生っているのだ。実際に果樹園でもいだ経験もある。
森を歩いていてさ、梨の木があって、、、と話し始めた私をよそに、恋人は黙々と梨を食べていた。「甘いよ。美味しい」
一週間くらい冷蔵庫の中で忘れられていた梨は、とても冷たく甘かった。
青春ぽい味がした。
当たり前のことだけど、果実は木に生る。
陳列されている姿をよく目にするばかりに、魚が海を実際に泳いでいることや、野菜が土の中に埋まっていることや、精肉がもとは筋肉として動いていたということを、忘れがちになってしまう。
いや、忘れるのではなく、それらが本来生命であったことを意識しなくなってしまうのだ。
「いただきます」という言葉が形骸化して意味を成しえなくなってきている。私の中で。
こんなことだから、木に生っているということに神秘的な、なにかファンタジーで素敵ななことなんだという想念を抱いてしまうのだろうな。