VLOOKUPはたいへん便利な関数であるが、しかしながら僕は、たいへんに頭が悪いので、VLOOKUPを使えない。
「VLOOKUPは使えるととっても便利だからね」と先輩は言ってくれる。
先輩は優しいから「VLOOKUPも使えないようでははっきり言って仕事では使いものにならんからそれくらい覚えて使いこなせ」とは言わないで、「とっても便利だからね」とにこやかに言ってくれるのだ。
でもさすがに5回目、僕がわからないです、と聞きに行ったときには、眉間にいっしゅん影が差したのを見逃さなかった。
「ここはVLOOKUPじゃなくて、SUMIFとIFERRORだね」
「わかりました、ありがとうございます」
先輩が溜息がちにそう言ったから、僕はわかりました、とついこたえてしまったけど、VLOOKUPがわからないことはもちろんのこと、SUMIFがなんなのかもよくわかっていないし、なぜここでIFERRORなのかも判断ができていないので、ほんとうのところなにもわかっちゃいなかったが、先輩の眉間にいっしゅん差した影の色とメンソール臭い溜息の生ぬるさについ恐れをなして(怒られるんじゃないか)「わかりました」とこたえてしまって、僕はデスクに戻りたいへんな後悔をした。
グーグルで調べて、それで関数を組んでも、エラーを吐いてうまく作動しない。
値を変えても、セルの指定を変えても、条件を変えても、どうやっても駄目だった。
いっそ無能な僕をあのとき叱ってくれた方がよかった。そうすれば、この処理を投げ出して「なんとかなるだろう」と言いつつも怯えながら過ごすこともなかっただろうに。
社会人になると、誰も、僕自身のために叱ってはくれない。
結局そのデータ処理は期日まで終わらず、先輩が関数を組み合わせてギリギリになって処理することになった。先輩がさらにその先輩に怒られてやるのを見ながら、僕が怒られるべきだと後悔した。あるいはあのときはっきりと「わかりません」とこたえて先輩を呆れさせてでも僕が恥をかくべきであったのだ。
「Excelできると便利だからね」
急いで仕上げた先輩はやれやれと言った顔でそう言った。先輩は優しい。
「すごく、便利だからね」
優しいだけだ。
↓
その一件以来、なんとなくVLOOKUPを忌避してソート検索と昇順整列を組み合わせてデータの比較をしたりしてやり過ごすようになった。VLOOKUPを使わなくてもできるんだぞ、というところを証明するかのように。
余計な工数がかなりかかりはしたけれど、さも工数がかかっていないかのようなふりをした。
そもそも、Excelの処理に関する仕事がほとんど来なくなった。
僕は1年目から2年目になり、もうすぐ3年目になろうとしていた。噂によると後輩が配属されるらしい。
「いよいよ先輩だな。いいところ見せないとね」
「そうですね」
まだVLOOKUPを満足に使えないのに先輩になるなんて。先輩になってしまうなんて。
あれよあれよと僕は3年目になり、本社の研修が終わった7月に後輩が配属された。
彼女はなんというか、とても可愛らしくて、容姿がとかじゃなくて後輩という存在の尊さみたいなものがほわんと漂っていて、なるほど新人の存在意義は職場にとってはこれがいちばんなのかもしれないと2年前の僕への先輩の態度を顧みた。
そして僕自身からはもはや「新人」の尊さは損なわれていた。
「先輩、」後輩にそう呼ばれるとくすぐったい気持ちがしてどんなに忙しくても笑顔でこたえてしまう。「、ここの関数がわからないんですけど」
「どれどれ」見るとそれはVLOOKUPだった。
「あー、ちょっと待ってね。たぶんここが違うんだ」と格好つけてみたものの、どこがどう違うのかわからない。だけど「こんなことで」先輩にお伺いを立てるべきではない3年目。
脳みそがフル回転した。
あらゆる可能性を探り、セルの指定範囲を変え、TRUEをFALSEに変え、列指定を一列ずらした。
半年ぶりくらいに触ったVLOOKUP関数に、どうしてそこまで的確な判断ができたのか自分でもわからなかったが、その手ぶりは鮮やかで、完璧な先輩の姿そのものだった。
Enterキーを押すと、目当てのデータが表示された。
「うわぁ、すごい」後輩が目を輝かせる。僕と同じ目をしていた。「ありがとうございます!」
やれやれ、と僕はおもう。
「関数使えると、とっても便利だからね」と僕は言った。
とても便利だから、そう言っただけだ。
↓
5回目に彼女が聞いてきたときも僕は便利だから「便利だ」と言うのだろうな。
(実際の使い方は下記をご参照ください)