蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

『キッチン』を読むということ

本ばなな『キッチン』を再読した。

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これで読み返すのは3、4回目くらいだけど、何度読んでもいつ読んでも、またいずれ読みかえすのだろうなとどきどきして、期待にも似たたしかな予感を抱く、大好きな一冊だ。

 

少ない言葉で、最低限の、しかし最大限の描写をしていて、言葉の置き方に間違いがないから文章がするする頭に入って来るのに情景が子細に脳裏に浮かんでくる。

気温や音や匂いや味わいが記憶の底から呼び起こされ、たとえ経験したことのないことだったとしても鮮やかな実感を伴って目の前の言葉を現実として経験できる、そんな文章だ。

後世にいかに影響を与えたかわかる。

 

天涯孤独になった少女が「女装した父親」という“母親”を持つ少し変わった同級生の男の子の家に拾われる話(表題作「キッチン」「満月─キッチン2─」)や、恋人を喪う絶望的な喪失と生きることについて書かれた話(「ムーンライト・シャドウ」)が収録されている。

二つの話の主人公は女の子で、しかも特殊な状況に置かれていて、その状況がかなり重く、とうてい自分の状況とはかけ離れているのだが、読んでいくうちにこの話はこの主人公の女の子のお話じゃなくて、自分の、私自身の話なのだとおもえてくる不思議さがある。

どういうことか説明しづらいのだが、そういうことなのだから仕方がない。

 

誰しもの心の深いところを流れる細い小さな川に、そっと触れてくれるような物語。

その川はすべての人間に共通の水が流れていて、心の奥深いところから海のような広いところへ流れ出ていく過程で、雨や土砂が交じり合っていく。その雨は慈雨かもしれないし村雨かもしれない。海になったとき、ひとそれぞれ違う形の、色の、味の、海になっている。そういう漠然としたイメージが私の中にある。

この一冊は、普段は意識をしないその川の存在を教えてくれる。ここに流れています、と。

何を言っているのかよくわからないだろう。私にもよくわからない。

 

物語の登場人物は私の知らない人たちじゃない。

遠いところにいる人たちじゃない。

私自身でもあり、誰かであり、誰でもない。

ただただ、『キッチン』を読み終えた後は、自分を愛せるようなあたたかい気持ちになる。

いまの生活を楽しめている自分に気付く。幸せを見つける視界が広くなって、たとえばなんでもない月を見ただけで「ああよかったなぁ」なんておもえて手を振って家に帰りたくなる。

すごくすごく、恋人に会いたくなる。帰ったら抱きしめようとおもう(シャワーに入ってから)。

 

きっと一生涯、読み続ける本になる。

ここの表現がすごくいいよね、なんて恋人と話しながら、そのうちうたた寝をしたりする。