蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

禿頭恐怖

(すが)内閣の顔ぶれがお爺ちゃんばっかりで、最初写真を目にしたとき、地元老人会の囲碁大会の朗らかな日曜の午後を収めた一枚かとおもってしまったけど、どうやらこれが我が国の新しい内閣らしい。

お手本のようなお爺ちゃんたちばっかりだ。

ひと昔前のギャグ漫画家の描いた想像上の内閣を実写化したような、見事なジジイ大集合ぶりである。

あの集合写真はすごく加齢臭がしそうだし、キリンジの『3』くらい脂ぎってるし、なによりも多少の毛髪の軽さを思わせる人たちばっかりで、ああ嫌だ嫌だ、見ているだけでこちらまで老けそうだ。

政治は「余生」でやるもんじゃないのだよ。

 

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禿げている人を見ると、不安になってくる。

とくに、禿げかけの人。これからまさしく禿げようとしていて、もう止めようもなく荒廃がすすんでいるひと。

雨は降りはじめたら上がるのを待つしかない。自力で雨を止めることは、よっぽど核爆弾でも使わないと不可能だ。

禿げかけている人を見ると、そんなことを考える。

自然には逆らわず、順応した方がいい。身を任せて、自然を利用するのだ。といったサバイバル意識を抱くようになる。

菅内閣の町内会囲碁大会集合写真を見て、前髪が冷えていくような禿頭恐怖を感じた。

 

私は生まれつきおでこが広くて、幼いころからそのことを、あらゆる人から馬鹿にされてきた。

おでこを見せれば「これは将来禿げるぞ」と言われ、髪が伸びるとおでこの「広さ」がむしろ浮かび上がるようになり、変な分け目ができるとそれを見て「ズラですか?」と言われたりして、腹が立つ。

なにに腹が立っているかと言うと、「ハゲ」であるということをさも惡や醜いことやみっともないこととして馬鹿にして、しかもそれで面白いと思って、ユーモアだと信じて誰かが傷つくことを意識もせず「ハゲ」は御上公認のユーモアで人権を得ているとでも思っているその乱暴さと横柄さに対して腹が立っている、わけじゃなく、私は禿げてなどいない、おでこが広いだけなのだ、といくら説明しても「はいはい、そのうちハゲますね」とあしらわれることだ。禿げたら馬鹿にされても仕方がないが。

どのくらいおでこが広いかというと、鮭の塩焼きを一切れ乗せられるくらい広い。よくわからない人は、いますぐ冷蔵庫を漁って鮭の塩焼きの切り身を探しなさい。

 

禿げたら内閣は解散すべきだ。格好悪いから。

「禿げるぞ」と言われ続けた言霊か、最近マジで前髪が薄くなってきてる気がする。

本当に禿げたら、いままで私に「ハゲ」の言葉を浴びせてきたすべての人間のせいだ。

そういった不安を抱くようになるから、菅新内閣は見ていて不愉快である。