「どうして人を殺してはいけないの?」という有名な問いかけがある。
もしも自分の子どもにそう問われたら、私はなんと答えたらいいだろう。
「法律で決められているからだよ」そう答えるとしよう。すると我が子は減らず口を叩く。
「日本では死刑制度が採用されているが、そのような理由を容認した場合、死刑執行人は法律で裁かれるべき悪人ではないのか。また死刑は全国民が(形式上は)合意の下で執行される刑罰であるので(ゆえに執行された際には臨時ニュースが全国区で流される)、すべての国民は殺人の罪で有罪判決を受けるべきではないか、その責任があるのではないか」
「むむむ……」
私の子どもがこう賢いことを言うわけがないが、正論を言われると閉口するか殴るかしか選択肢が無くなるのでやめていただきたい。
すべての人間は生きる権利を生まれながらに有しており、それを他者の意志によって不当に剥奪されることは許容されるべきではないのだ。というのが当面の理由。ここ最近のブーム。いまの道徳観。
だけど、これも、本質ではない気がする。
戦争状態になればいくらでも人を殺すし、正義の名のもとに守られていれば、いくらでも引き金を引く人はいる。人を殺すことが正義にもなる。
どうして人を殺してはいけないのか?
結局のところ、本能的に人を殺さないのではないか、とおもう。
「人を殺してはいけない」のではなく「人を殺したくはない」ことが、一部のシリアルキラーを除いて多くの人の中にある本能なのだ。
そのあやふやした根拠のない共通意識を理論づけるために道徳があり、法律があり、思想があり社会の規定になっている。
もしかしたら「人を殺したくない」心理も社会的に植え付けられたものなのかもしれない(たとえばジェンダー意識のような)。
しかし、古くから人を殺すということは、生贄や戦いの鼓舞や王の葬儀であったりと、どこか儀式的なものであった。
尋常ならざるパワーを手に入れるための儀式においては特別な状況(民俗学で言うケガレの方向性で)を作り出す必要性があり、そのために殺人を用いていたのではないか。ある意味象徴的なモチーフとして。
象徴としての殺人は通常の精神状態では踏み込めない「特別」あるいは「特殊」な状況なのである。
とすると、「人を殺したくない」あるいは「人を殺さない」という心理的機序は本能的に備わっているものであり、それを外して特殊な状況に陥ることができるのはむしろ社会的な規定によるところが大きいのではないか。
などなど考えてみる。
で、結局子どもに「どうして人を殺してはいけないの?」と訊かれたら私はこう答えるだろう。
「さも、人以外なら殺してもいいとでも言いたげな口ぶりだな」と。
こういう父親を殺して大人になろう。