ふとした言葉の蓄積がやがて大きく重くなって誰かの肩を潰し、膝を砕き、立てなくさせることだってあるんだ。だから誰かにかける言葉は本来慎重にしなければならない。
だからといって慎重になりすぎると今度は言葉が出てこなくなってしまう。
誰かを傷つけてしまう可能性があるくらいなら何も喋らない方がマシだとさえおもうときがある。
チャットやメールやブログなら言葉を吟味して選べるし、スタンプとか絵文字で感情を曖昧にして言葉から逃れることもできる。
お喋りは、一度出した言葉を喉に戻して無かったことにはできないし、考えるよりも先に言葉になってしまうことだってあるから危険だ。
そういう何気ない言葉の蓄積が誰かを痛めつけているんだ。
ほんとうに難しい。人類には言葉を使うのは早すぎたのではないかとさえおもう。
そんなつもりなくても言葉は刃物になるかもしれないし、褒めても場合によっては傷つけているかもしれない。
「君はこれが得意なんだよね」とか「これが上手だよね」みたいな言葉さえ、やがて堆積して腐り、アイデンティティを構築している言葉になるがゆえに「誰かに決められた自分自身」である痛みを伴って襲い来るかもしれない。
沈黙は金。秘すれば花。
だからって黙り続けていることはできないし、たとえば傷つけることを恐れて相手を想っての忠告をしなかったり、思いの丈をぶつけないことは、ほんとうの信頼でも愛でもない。
中学生くらいの頃からこのことでしばしば悩んでいる。
自分でも面倒くさい。
私はきっと知らず知らずのうちに人を傷つけて生きているのだろう。
あとから思い返して、しまった、とおもうことがよくある。
配慮のない言葉、遠慮のない言葉、どうしてもっと空気を読んだ発言をすることができず、相手のことを慮る想像力に欠如しているのだろう?
みんなはそういうことに気を遣えて頭がいいのだな。
それとも咄嗟に会話の中でそういう気遣いができないということが、単に他人に興味が無く自分本位で他者への尊敬の念を欠いていることの現れなのかもしれない。このように自意識過剰であるということが自己中の証拠だ。
誰も傷つけないで生きていけたら。そうおもう。
自分自身も守っていけたら。
結局のところ人間は不完全な生き物だから言葉なんてものを使わないとあの子に愛を伝えることができないし、言葉を使えてもあの子がこぼした涙の粒がどこからどうして溢れてきたのかもわからないのだ。
でも、結果として傷つけることもある言葉だけれど、言葉の誕生のきっかけが、あの子に愛を伝えるためだったり、あの子の涙の理由を知って一緒に泣きたいからだったとしたら、素敵だなとおもうし、私はそうでありたい。