なんのために生まれたか、なぜ生きるのか、なんて問いかけは無意味だ。
われわれは生きてるから生きているに過ぎない、有機物なのである。
だけどつい「なぜ生きるのだろう?」などと余計なことを考えてしまう。それって
邪念に蝕まれて現実から目を背けたくなっている証拠なのだとおもう。
目の前の嫌な課題とか憂鬱な仕事とか失敗から離れたいから、大仰で観念的で答えのない問いかけをして頭脳だけでも宇宙へ飛んで俯瞰的な気分になり、些細な日常の憂鬱から心を切り離そうとするのだ。
中高生の頃、もっと言えば十代の頃はそういった答えのない問いかけを脳内で繰り返し、どこにも行かない自分探しをずっとしていた。
刻々と迫りくる受験や日々の宿題や憂鬱な授業から目を背けたかったのだろう。
十代という繊細で傷つきやすく、わがままで世間知らずな時間の大半をそんなことに費やしたけど、なにひとつ答えを得られはしなかった。
なぜ生きるのか?どのように生きるのか?自分とは何か?知るか。
唯一得られた答え、というか、諦めの折り合い点として見出せた回答は、「そういった問いかけに答えるために人生を費やし、死に様がその答えになるのだろう」ということだ。
要するに、生き方で示すしかないのだ。その史跡のひとつとして文学という側面もある。
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最近はそういったことを考えなくなってきた。
仕事があると暇ではないのだ。
疲れる。これ以上疲れたくない。仕事で頭がいっぱいいっぱいだ。おっぱいおっぱいだ。
毎日粛々と仕事をこなし、余計なことを考えず、休日があと何日で来るかだけを考えて日々をやり過ごせばいいんだ。
そうすると苦しみは感じにくくなる。
そうすると案外一週間ははやく終わる。
そうして、給料は安いけど自分のした仕事が誰かの役に立っているんだなぁとわかったときは、ほんのり誇らしくもなる。
なぜ生きるか、なんて考えていると病気になっちゃうよ。まじで。
だけど、ふと、この粛々とした日々の積み重ねが人生の大半になるのかとおもうと、太い鎖で椅子に固定され身動きが取れなくなったかのように身体が重くなって、心が深く沈んでいくのだった。
なぜ生きるのか?
生きる意味は何だろうか?
答えの無い問いかけがはじまる。
私の人生って一体?
これでいいのか?
ずっと?
この、なににも満足していないし、気力もないし、……。
考えれば考えるほど恐ろしくなる。
自分が何にもなれないような気がしてくる。
ここから先は怖くて書けない。
ときどき、思いきり悩んで自分の本心と対話することも大事なのだろうな。
大人になるって楽しいんだけど実は寂しいことで、本音と建て前を使い分けて自分自身すらよくわからなくなっちゃうことなんじゃないか。
だからときどき自分と対話して、カウンセリングしてやらねばならない。もちろん答えはない。