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【鬼滅】煉獄さんを物語から退席させた理由を考える【ネタバレ含】

(2021/9/26追記有)

 

「無限列車編」の原作を初めて読んだときに首を捻った。

主人公・炭治郎の属する鬼殺隊のなかでも有数の実力者「柱」と呼ばれる階級のうちの一人である煉獄 杏寿郎(れんごく きょうじゅろう)と名乗る男が戦いの中で死ぬのだが、死んだとき、私は「え、死ぬんだ」とおもったのだ。

 

死ぬのかよ。

 

煉獄さんは良いキャラだった。私も好きだ。

無限列車編は炭治郎たちがあらためて鬼殺への強い意志を募らせ、煉獄さんの生きざまは主人公たちに強い影響を与えた。

炭治郎が今後「なぜ鬼と戦うのか」の理由の一つとなっていく重要なエピソードである。

だから煉獄さんは重要なキャラだ。

 

でも、本当に死ぬ必要があったのだろうか?

 

死ぬために設定されたキャラなんじゃないか

 

そう思わずにはいられなかった。

 

   ↓ 

 

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       (この表紙格好良い)

 

炭治郎たちと煉獄さんは初め無限列車で乗り合わせた関係に過ぎなかった。

そこまで仲も深まっていないし、むしろその前のエピソードでは煉獄さんは炭治郎と禰豆子二人の存在を認めていなかった。その場で即処刑しようとしていた。

産屋敷(上司にあたる人)の意向と煉獄さんのキャラクター性も相まってなんだか炭治郎たちはとりあえず認められた、みたいな感じになったけど、煉獄さんが炭治郎を認めるまでのエピソードが薄い気もする。でもまぁ、そういうキャラと言われればそれまでだ。

そして、共に戦うことを通して存在意義を認められ、上弦の鬼にあっさり殺されてしまうと、炭治郎は煉獄さんを深く偲び(まるで長年お世話になった師弟関係のように)、鬼への憎悪をさらに募らせることになる。自分の弱さを憎み、さらに強くなることを誓う。煉獄さんは多くの人を救済し、囚われていた過去に報われ、自分の中で救われる。

 

  対立 → 共闘 → 和解 → 救済

 

この基本的な流れは『鬼滅』全体を通して存在するものだ。

 

しかし、なにか、「無限列車編」においてはこの話の展開の早さに説得性が欠けているとおもった。

なにせものの一巻ちょっとの量でしかないのだ。

作品内の時間にして一晩でしかない。

 

たった一晩ともに戦っただけで、こんな関係性になれるだろうか?

そこまで「共闘」が深く描かれた印象もなかった。煉獄さんは確かにすごかったけれど、共闘という点では次の「遊郭編」の音柱とのほうがエピソードの印象は強い。

他の「柱」と共闘するエピソードにしたってたった一晩の関係性ではなく、戦い以前に何日間か(何話か)使って、なんらかの関係性を築いている。それがどのような関係性であれ、主人公との関りを描いている。

にもかかわらず、煉獄さんとのエピソードはたった一晩。数時間、だ。

これだけの関係性で煉獄さんが尊いものとなり作品が深まるだろうか?

 

「数話で殺した」ことによって、炭治郎たちが次への意志を固めることと上弦の参への憎悪を募らせることに説得力が欠けている気がする。

どうせ殺すために生まれたキャラクターなら、もうすこし炭治郎たちとの関係を練り上げてから殺してほしかった。そうすれば意志の伝授にも、感動エピソードにも、もう少し説得力があったはずだ。

 

   

 

煉獄さんは、ここで死ぬために設定されたキャラクターだ。

 

 

「那田蜘蛛山編」でも隊士は死んでいたが、彼・彼女らは雑魚で、まぁ雑魚隊士なら死ぬかなってかんじだったけど、煉獄さんという圧倒的な強さを誇る柱の一人の死は衝撃的で、これにより上弦という鬼がどれだけ強いのか推して測ることができた。

「死」が強さの尺度を与えたのだ。

 

煉獄さん =「死」の役割の一つとして、今後戦うことになっていく強力な鬼(上弦の鬼)がどれだけ強く恐ろしいのか示す、そのための道具になったと考えられる。

 

だが、彼の「死」によってその強さとヤバさは十全に描写できたのだろうか?

私はそうは思わない。

 

鬼がかなり強力であるというのはこの後に続く「遊郭編」でさらに描写され、むしろこちらの方が強さと困難さに説得力があった。

「上弦の鬼」と呼ばれる六体の強力な鬼のうちで最も弱い鬼と主人公たちは対峙し、主人公たちは辛くも勝利を収めるが、「柱」のひとりである宇髄さんは片腕と片目を失い戦線離脱を余儀なくされ、はっきり言って全員死にかける。

最強メンバのうちで最弱の鬼と戦ってもギリギリ勝てたようなものだ。このエピソードによって真に「上弦」の強さは測られたとおもう。

死なずに「柱が肉体を損傷し戦線離脱する」という結果だけでも上弦の鬼の強さは充分に描写できたはずだ。

煉獄さんは負けたから死んだのであるが、「死」によって鬼の強さを示すことができたかといえばそういうわけでもない気がする。

煉獄さんを殺した「上弦の参」の鬼「猗窩座(あかざ)」は戦いの中で全力を投じていたようにも読めない。追い詰められた最後はさすがに焦っていたけど、最初から全力で戦っていれば一瞬で勝負はついたかもしれないし、煉獄さんを追い詰めたとき猗窩座はまだ充分に体力を余らせ、「余裕」の表情を見せていた。

むしろここでは「上弦」の強さよりも、鬼の「卑怯さ」が印象深い。

 

そもそも本来の目的であった鬼には勝利していたにもかかわらず、ぽっと出の「上弦の参」が登場する理由もよくわからない(あとで判明したことだが「近くにいたから」らしい)。

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       (激おこの無惨様)

 

ここでの上弦の参の真の登場理由は、いかにも後付けの「近くにいたから」ではなく、メタ的には、「煉獄さんを死にキャラに設定して上弦の鬼の強さを知らしめる」目的があったからだと判断できよう。

 

だけど、「遊郭編」で証明されたように、わざわざ仲間を殺さなくても、鬼の強さは描写はできたはずである。

続く物語への布石を打てたはずである。

では、なぜ作者は煉獄さんを殺さねばならなかったのか?

 

   ↓

 

ここからはメタな考察になり、類推でしかない。

煉獄さんを作者が殺さなければならなかった理由は「物語的に、炭治郎が倒すべき具体的で且つ可能そうな強敵が欲しかったから」ではないか、と考えられる。

 

物語の大きな目標は、大ボスの鬼舞辻 無惨を倒すことである。

ただその目標はすべての隊士が抱いているものであり、かつ漠然としていて、まだこの頃弱かった炭治郎ではその物語に至るまでに何年かかるんだってかんじだった。

そこで、ひとまず無惨様を倒すまでに中継すべき「中ボス」を設置したのではないだろうか。

それが上弦の参「猗窩座」である。

 

いきなり大ボスに挑んでも負けるし、大ボスを倒せたとしてもその実力がついているという説得性に欠ける。そのためには中ボスを倒して主人公がかなり強くなったことを示さなければならない。

つまり、倒すべき直近の目標があることで、炭治郎はさらに強くなろうという意志を固める描写ができるし、具体的な目標に向かっていく原動力にもなるのだ。

それだけ大ボスの無惨様は圧倒的な存在感があり、強すぎるゆえに倒すリアリティがこのときはまだ無かった。

 

だが、ただ単に中ボスを設置しても、そこには戦うべき理由が「鬼だから」以外に無い。

「鬼だから倒す」では精神的な成長描写がままならないし、「強くなりたい」理由付けが弱くなってしまう。

そこで仕組まれた「戦う理由」のひとつが「煉獄さんの死」だったのだ。

 

死はどの漫画や物語でもシンプルに手っ取り早く憎悪をあおり、共感性を得て、戦う原動力になる。

ドラゴンボール』だってクリリンが死んだから悟空は超サイヤ人になれたし、『幽遊白書』では桑原が戸愚呂(弟)に殺されたから(死んでなかったけど)、幽助が覚醒できたのだ。

 

『鬼滅』の場合、ドラゴンボール程シンプルではなく、炭治郎がその後強くなるために、煉獄さんの「死」に付随して、鬼の卑怯さへの憎悪や無惨様への怒りや煉獄さんの生き様といったさまざまな要素が絡まり合うが、それらの理由は、しかしながら、結局のところ、「煉獄さんの死」があってこそ発現するものだったと言えよう。

 

   ↓

 

上記を踏まえて、煉獄さんというキャラが最初から死にキャラとして設計されていたことがうかがえる。

作者の狙い通りだったかもしれないし、あるいは編集との打ち合わせで「殺しましょう」ということになったのかもしれない。

なんであれ物語をさらに動かすための布石でしかなかったのだ。

 

 

私が許せないのは、煉獄さんが死にキャラとして設計されていたことではなく、早々に物語から退席させたことだ。

今後の炭治郎にとって、精神的な「柱」ともなり重要な人物となる煉獄さんとの関係性がたった一晩だけの、描写も少ないものであったから、じつに、じつに炭治郎が心の炎を燃やすための動機に説得力が薄い気がしたのだ。

また、この作品は「想いを継ぐ」がひとつのテーマになっているのだが、この早々の退席と関係性の浅さでは、その想いも深いところで炭治郎に受け継がれたとは捉え難いのではないか。

私が読んだときにはその部分の説得性に欠ける気がして首を捻ってしまったし、これなら煉獄さんは死なないで戦闘不能状態で生かしておいてあとから「想い」を受け継ぐような場面があっても良かったんじゃないか、とさえ思えたのだ。

そこを補うために後日談として煉獄家を訪れる話があるのだろう。

 

無限列車編は「想いを継ぐ」テーマを与えた重要なエピソードになるわけだが、それにしてももう少し煉獄さんと炭治郎の関係性を深めてから殺した方が良かったんじゃないかと、いち読者として感想を抱いた。

もっと関係性を深め、炭治郎が炎を燃やすだけの強力な説得性を持たせてほしかった。

 

 

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以下、2021/9/26追記

 

テレビで無限列車編を観た。

原作でこのエピソードが好きではなかったので映画館では結局観なかったのだけど、今思えば観ておけばよかったのだ。

印象がガラッとかわった。

漫画では希薄に思えた煉獄さんと炭治郎の関係性が、映画という2時間弱の時間の中で可能な限り深まるように演出されていたし、煉獄さんの言葉は炭治郎と私たちの心に響くものだった。

だからこそ想いが継がれるシーンにも重厚感と優しさに満ちていた。

 

アニメは漫画では描ききれていなかった心理描写を演出で補ってくれる。漫画であっさりとしていた部分をアニメできっちり描いてくれて、また声優さんの演技も相まって言葉は重く響き、ストーリーの層が厚くなる。

無限列車編はそれをまったく見事にやってのけた。

そりゃあヒットするわけだ、と思えた。

 

煉獄さんはやっぱり死にキャラだけれど、映画を観た後ならここで死ななきゃ次へ進めないと思えるくらい重要なキャラクターに昇華されていた。単なる死にキャラじゃない。400億の男だ。

 

次の「遊郭編」は原作でも大好きなエピソードなのでアニメへの期待値もかなり高まってる。