蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

喋れないだけがコミュ障じゃない

学的(げんがくてき)になってしまう。

衒学的、とは、知識をひけらかすことを指す。その反対が韜晦(とうかい)だ。どちらもあまり良い意味としては使われない。

 

私としては知識をひけらかしているつもりもなく、カジュアルに知識から抜粋して会話を盛り上げようとするのだけど、それが傍から見たら衒学的に映っているだろうし、はたして会話に効果のあることなのかというと、実際にそれで会話が盛り上がったことはない。

たとえば。

恋人が会社の愚痴を言っている。同僚の愚痴だ。仕事の人間関係について同僚は不器用でコミュニケーション不足であるとか、自分にも原因があるのではないかなど、彼女なりにおもったことを自動書記装置に吹き込むように滔々(とうとう)と喋る。

それに対して私は、基本的には相槌を打ち続けるのだけど、つい口を挟みたくなってしまうことだってある。

女性と会話する場合、とくに悩みや相談を持ち掛けられたら、口を挟んだり自分の意見を言うのは悪手だ。適度な相槌を打ち続けることが、地道だけど確実な方法である。

にもかかわらず、つい意見をしたくなる。自分の考えを言いたくなる。

しかも衒学的に。

上田秋成春雨物語のうちの『二世の縁』って話にもさ、記憶喪失の即身仏みたいなのが出てくんだけど、それはね、偉いお坊さんだったはずなのに、起き上がると急に慾に忠実になってしまうんだよね。でも、周りの人は、その即身仏が偉い人だったからどんなわがままにも尽くして世話をしてあげるんだけど、結局その方の日頃の行いとか未亡人と結婚するのを見て……」

などと話していると、恋人はぷいとあちらを向いて話を終りにする。

ここにきてようやく「しまった」とおもう。

 

会話の流れの中で『宇治拾遺物語』から思い出した説話を挟んだり、昔読んだ論文を引用したり、文化人類学民俗学の話をしてしまう。

知識をひけらかしたいわけではない。話の種として、あるいは水流として、盛り上がればなぁと汲んで、そういう知識を話してしまうのだ。

源氏物語六条御息所みたいだね」

「こういう広がり方を民俗学では蝸牛論と呼ぶ」

「いい声ってお経でも大事で、宇治~の中にもこういう話がある」

「美しさなんて時代と地域と文化によって規定されるものでしかない。たとえば清朝であった纏足という風習は───」

 

こういう話に入ると恋人は私を揶揄して「教授」と呼ぶ。

浅はかで雑学的な知識を、結果としてひけらかすようになってしまうようでは格好が悪い。そもそも、会話の引き出しがそういうところにばかり偏っているのもコミュ障の現れではないか?

と言って科学や数学分野の話をしてもしかたが無いだろう。人生経験が足りないからつまらない話しかできないのかもしれない。旅とかすべきだろうか?それとももっと他人に興味を持って、心を開いていくべきなのだろうか?

恋人に対してもこのザマなのだ。

 

反省して最近は恋人の話にも相槌を打つだけになっている。

恋人はますます調子よく喋る。やっぱりこれでよかったのだ。