鍋っていいな、と昨晩おもった。
「鍋という道具はいいな。丸くて可愛いし、硬くて強そうだし。あの鍋に入って風呂としたいな。あの鍋に乗って空を飛べたらな」という意味ではなくて、料理としての鍋がいいな、という意味であるということは皆さん、人生経験のうちに周知のことだろう。
いや、そんなことわからないでしょうが。鍋を道具論として良いと言ってるのかもしれないじゃないですか。そう茶々を淹れる方もおられるだろう。
たしかに鍋は良いですよ。道具論としても。
でもここで言いたいのは鍋料理のことです。道具論としての鍋についてはいずれ、機会があれば、興が乗れば、書いて差し上げましょう。
うだうだ書いたけど、あらためて、鍋料理っていいなぁと昨晩はおもったのでした。
作るのも簡単だし、そこまで時間かからないし、美味しいし、温かいし、酒と合うし、シメが美味しいし。
野菜たちを切っていくとき、ざくざくという音が期待感を膨らませる。
ちょっと切りすぎたかもしれない、鍋に入るだろうか?って不安になるのもまた一興。
冬の夜の黒はどの季節よりも澄んで鋭く尖っている。深海のように暗く静かだ。
ダイニングの明かりだけを点け恋人とテーブルに向かい合って座ると、そこだけ世界からぽっかり浮かんでいるみたいで、ある種の孤独感と、二人だけの世界にいるという充足感で、自分たちは特別なんだ、って「二人でいる」ということに愛しさをおぼえる。
炊飯器は半分闇に身を隠して人知れず私たちのために米を炊いてくれている。あとで雑炊にするのだ。
恋人が焼いた卵焼きは湯気を出しながら黄色く輝いている。
グラスにビールをそそぎ、泡がこんもりと膨らんでいく。ビールの美味しいところは味もそうだけど、見た目も大事だから、慎重に泡の量を調整する。
明かりの下に二人用の土鍋が佇んでいる。小さいけど大きい存在だ。
蓋を開けると、ぶわりと湯気が立ち、メガネが曇って笑ったりする。
世界は静かな舞台袖のようで、私たちだけがこの世界のステージに立っている主人公なのだ。
何の変哲もない、特徴のない、ただの人生の物語かもしれない。
だけど、かけがえのないものだと私はおもう。
平凡だけど特別だ。誰にとっての人生もそうだ。
鍋を囲むとすべてがあたたかくなる。
二人だけの国で自分を肯定していける気がしてくる。
だから鍋が好きだ。
鍋を好きになったのは、ごく最近のことである。