友だちは少ない方がいい!と主張する人がいる。
全面的に賛成だ。
それについていろいろ理屈をこねてどろどろにしてやることはやろうと思えばできるのだけど、正直のところを言えば、そんな理屈によるところではなくて、私という人間が人間関係というものがなんとなく苦手で厄介な代物とおもっているからで、よほど長い時間を過ごした人以外とはできればコミュニケーションを避けたく、つい無意識に人とは距離を取ってしまう人間だから、友だちは最小限でいい、と唱え賛成しているに過ぎないのだ。
だから、正確に言うならば、「友だちは少ない方がいい!」のではなく、「友だちは少ない方が自分にとっては都合がいい」というだけだ。
友だちは多い方がいいとおもう人は友だち100人作って休日の予定を潰していけばいい。
そういった性分の方が充実するというなら、LINEの友だち登録を1000人にも2000人にもすればいいんだ。
「友だち多い方がいい」「少ない方がいい」という2択、これは「どちらを選ぶ」というものではなくて、生来の(あるいは獲得してきた)性分によって形作られる人間関係の環境だから、選んだりデザインすることはできない。
なるようにしかならないし、あなたを囲む人たちが、あなた自身なのだ。
私は断然、少ない方がいい。
多いといろいろ面倒くさいじゃないか。
こういうことを「面倒くさいもの」と捉えてしまう時点でお察しである。
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それにしても「友だちは少ない方がいい!」と主張する人たちの意見に耳を貸したくないのはなぜだろう。
同族嫌悪?
ちょっとちがう。
なんか、そういう主張をあえてする人たちは、友だちがいない人みたいに(実際いない)独りよがりで自傷行為的な暴力性を言葉に孕んでいる感じがするのだ。
たとえば、10年前はクラブで働いててマジで友だちが2000人くらいいたんだけど、あるときこれはおれの生き方じゃないと気付いて、友だちを減らしに減らし、今では最小限の3人としかつるんでない、おれがこういう生き方を選んだのは、友だちは少ない方が自分にとってのメリットがあると気付けたからだ、と主張する人の話なら説得力がありそうだ。
二つの環境を経験したうえで、自分の人間関係をデザインし、コントロールできている人の意見なら中立的でもあるかもしれない。
ずっと友だちなんて呼べる人はいなくて、孤独にダンゴムシとばかり遊んでいたような人が、ほとんど人間関係を経験しないまま放つ「友だちは少ない方がいい」という言葉は論拠に乏しく、なんならただの僻みのようにも聞こえる。
「友だちは少ない方がいい」ではなくて「友だちは少なくてもいい」と言い換えた方が優しいし、「友だちがいないならおれが友だちになってやる」と言える方が格好良い。
「友だちは少ない方がいい」という言葉は賛成だけれども、格好悪く、独りよがりで、なんとなく、この人は友だちを「作らない」んじゃなくて「作れない」のだろうなぁとおもってしまうのであった。
こういうこと考えて書いてるから、私も友だちは少ないのだろうな。