蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

「苦難」と「快楽」のご褒美

 

自分へのご褒美と称して、本を買った。

分厚い本だ。

ハードカバーなので持ち運びもできず、家で読むしかない。

私は分厚い本を読むのが苦手なので、はたしてこれをいつ読むのかわからない。

でもまぁ、とりあえず買っておいて、読む時が来たら読めばいいとおもっている。

読書ってタイミングだから。

すぐに読みたいから買う本もあるけれど、そのうち読みたいから買っておく本があってもいい。

そのタイミングは明日かもしれないし、3年後かもしれない。

 

分厚い本を読むのが苦手なのに、分厚い本を買って「ご褒美」とはどういうことなのか。

本を読むことよりも、「本を読み終わること」が好きなのだ。

分厚い本は、それを読み終わるときの余韻と快感が薄い文庫本の比じゃない。

今年は夏頃にウンベルト・エーコの『薔薇の名前』をかなり苦戦しながら読んだのだが、それを読み終わったときの快感といったら、深い牢獄から解放されて3カ月ぶりに日の光を浴びたときのようであった。

読み終わってしばらくは茫然とし、中世の物語舞台からなかなか精神が帰ってこれないほどの長い余韻を味わっていた。

なんかわからないけど、流行の、「ととのう」感覚に近いのかもしれない。

そのために分厚い本を買っているフシがあって(もちろん内容がかなり気になるというのが一番の理由だ)、読んでいるときはツライな、と思いながらも読後の快楽に浸ることを目的とした読書をしている。これはほとんどサウナではないか。

 

読書は「読み終わるのが好き」という人、ほかにいないだろうか。

なんか一冊読むと脳がアップデートされた気分になって気持ちよくなったりしないだろうか?

本棚に本が収まるのを見るのが好きという人、いないだろうか?自分の脳みその物語と知識のパーツが可視化されている本棚は格好良いと思わないか?

ツァラトゥストラはかく語りき』とか『エチカ』とか『ユリシーズ』を読み終えたときの快感はどんなのだろう、と考えてゾクッと興奮したりしないだろうか?

私は読書人としてこの点で不誠実かもしれない。

 

 

それにしても、自分へのご褒美は「苦難」と「快楽」って、ちょっと変態みたいだな。

 

 

今週のお題「自分にご褒美」