電車の発車間際に緊急停止ボタンが押されて、車内に閉じ込められた。
ホームでは人々がざわつき、車内でも乗客はおろおろと見回してアナウンスを待った。
「安全状況を確認しております」と車掌。どうやら扉は開けず、待機するらしい。
こういうときギリギリ乗り遅れた人はじれったいだろうな。乗り遅れた電車の扉が開かないのをホームで恨めしく見続けるのだ。私だったらドアを蹴飛ばしてあえなく御免になるかもしれない。
幸運にも私は急いでいなかったので、どうなろうがどうだってよかった。ゆっくり安全を確認すればいい。紅茶を淹れる時間くらいはあるかもしれない。
ドアの窓からホームの様子をうかがっていると、一組の父娘が私のドアの前に並びはじめた。
女の子は3歳くらいで、犬のバルーンアートを手にしていた。
お父さんはきょろきょろして、なぜ目の前のドアが開かないのか訝しんでいるようだった。
女の子と目が合うと、彼女はにこりと笑った。
その笑顔にこちらの心もほだされて、つい手を振った。
女の子が手を振り返してくれた。
すこし恥ずかしがりながらも、人懐こい瞳でやわらかそうな頬をくにゃりと曲げて笑う彼女はきっと、自慢の娘なのだろう。
バルーンがふるふる揺れる。
まもなくして電車が発車した。
最後にもう一度手を振ると、彼女は満点の笑顔で手を振り返してくれた。
私が幼いときも、同じようなことは何度かあった。
誰にでもこういう経験はあるだろう。
知らない大人の人と目が合って、手を振ったら振り返してくれる。ときどき向こうから話しかけてくれたり、飴やらキャラメルをくれるのだ。
相手は電車のボックスシートで向かい合ったカップルだったり、ホームの同じ列で待っていたおばさんだったり、工事現場のおにいさんだったり、サーファーだったり、さまざまだった。
私はその「大人側」になったのだ、と女の子に手を振っておもった。
あの日、私に手を振ってくれた人たちは、いまどこでどうしているだろう。
会ったところでどうしようもないし、生きていても死んでいても、どうなるものでもない。
ただ、あの人たちの人生は私の記憶に切り取られた一瞬だけではなくて、ちゃんと生い立ちがあり、親がいて、たとえばその後子どもができているかもしれないそういった連続した時間の中にあって、手を振り合ったささいな時間は、私の連続した時間とあの人たちの連続した時間が、あの日あの場所であの数十秒だけ交差した、偶然に過ぎないのだけれど奇跡みたいな、「縁」のある時間だったのではないかなんて、思いを馳せてしまうのだ。
たったそれだけの縁だけど、縁は縁だ。
厄介な人間関係に陥るような腐った縁よりかよっぽどプラトニックな関係かもしれない。
たったそれだけだから、深まりもしないけれど汚れもしない。
中央線のホームで手を振ってくれたあの子。
ずっと大人になってから、あの子も誰かに手を振るかもしれない。
そのとき手を振る相手は、私の子どもなのかもしれない。
そのときはよろしく頼む。その日まで、お元気で。