話題の映画『異端の鳥』をようやく観てきた。
噂に聞いていた通り、それなりにきつい作品だった、いろんな意味で。
簡単な作品ではなかったし、2時間半余りもあって長尺、セリフも少なく映像で「読ませる」映画なので、一回観ただけでぜんぶを理解することができる人はいないだろう。だけどもう一度観るかと言われたら、すすんで観ることのできる度胸のある人もいないだろう。
それだけ暴力シーンが、実際の痛みを伴うほどにきつかった。
だけど、心に残る作品にはなった。
「良い映画というのは、鑑賞である以上に、体験である。」
と言ったのは誰だったか。
まさしく『異端の鳥』は体験だった。
かなり緊張して観ていたのか、鑑賞後は酷い肩こりになり、鋭い頭痛がした。尿意もひどかった(2時間半余り我慢していたのだ)。
批評とか考察とかできるほど、頭のいい人間ではないので、とりあえず考えたことを書き留めておこう。
↓
劇中で何語を喋っているのかよくわからなくて、調べてみたら、人工言語だった。
スラヴィック・エスペラント語というらしい。
主人公を迫害するコミュニティの人々が明確にその国と地域の言語を喋ってしまうと、映画のノイズとなりうる お門違いの「批判」「非難」「差別」が劇場外で発生する可能性があり、それを避けるべく人工言語を採用したようだ。
すさまじい配慮だ。
そしてこの人工言語の採用は演出にも一役買っていて、どの語族の人が観たとしても「得体のしれないもの」として認識されるわけだから、いっそう不気味さを醸す。
これはどういうことかというと、言葉がわからないことで、自分(観客)はコミュニティの外から来た「異端」であると認識させ、異端の主人公に自己投影できる仕組みになっているのだ。たぶん。
人工言語だからか、全編を通してセリフが少ない。
しかも半分くらいが罵声や叫びなど憎悪をあおるセリフだ。
セリフの少ないぶん、「音」に注意が注がれる。
撃鉄をおこす音、銃声、殴る音、蹴る音、燃える音、汽車の音、抉り出す音、豪雨の音、吹雪の音、吠える犬、ヤギの鳴き声……
暴力的な、嫌悪感のある「音」が大きい。
ときどきゾッとした。目を塞いでも殴る音は聞こえるから。
この映画では暴力から逃れられない。
白黒だ。
なぜ白黒である必要があったのだろう?あえて白黒であることには重大な意味があるとおもわれる。
色々考えられるけど(白黒なだけに色々と)、私がおもうに、「言語」の配慮と同じなのではないだろうか?
主人公はユダヤ人、あるいはジプシーであることによって迫害されている。どちらであるかは明確にされていない。
人種差別は現在も根深く残る差別問題だ。
肌の色や目の色が違うというだけで社会的に不利になったり、殺されたりもする。
「白黒」であることはそういった外見による差別への抵抗を示しているのではないだろうか?
主人公の髪の毛が何色であるか、瞳が何色であるか、肌がどんな色調なのか、明確にはされない。明確にしてしまうことで、「この髪の色でこの瞳の種族でこの肌の人種は差別されてきたのだ」という観念を植え付けかねない、そのリスクを避けようとしたのではないか。
そうした演出により「そういったことでは差別はさせない」という意志を感じさせる。
少なくとも私はそうおもった。
演出論的なメモになっちゃった。
内容についての考察はいくらでもあったので、あまり書かれてなさそうなところを考えてみたのです。
以下、参考文献です。
原作も読んでみようかな。重くて大変そうだけど。。。