「むかしのおれは、それこそ幼稚園とか小学校とか幼いころは、もっと快活で、お喋りで、明るい人間だったんだよ」私がそう言うと恋人は、
「そうやってすぐ嘘をついたりもしなかったんだろうね」と言った。
嘘ではないのだ。
幼いころの私はもっと快活で、明るくて、人懐こくて、誰にも分け隔てなく接していたのだ。
それがどうして今、こうも、暗くなってしまったのだろうか。
家族に陰で「暗い男」とあだ名されるようになってしまったのか。陰で言われるようでは本当に悪口じゃないか。
いまでは人懐こさは消え去り、なにもしていないにもかかわらず「人を殺しそう」とか「怖い」とか言われる。「死にそう」「まったく心を開いていない」などと言われる。恋人にも言われる。
まぁ、昔は「殺す」と殺意を撒きながら歩いていたのであながち間違ってはいないが、今はそんなこと思わない。他人に関心がなく、どうだっていいだけだ。みんな好きなようにすればいいし、どこかへ行けばいい。
母親などに「昔はあんなにお喋りでうるさいくらいだったのにねぇ」と言われると心がジクリと痛む。
きっと私はあの頃に、一生で喋れるうちの総量の半分以上を消費してしまったんだ。それで、その後の人生は節約するようになってしまったのだ。
大人になったときの性格とか性質って、生来のものではなくてほとんどが生きてきて獲得してきた後天的なものだとおもう。
逆に子どもの頃の性格や性質は生来のもの(つまり遺伝的な形質)だろうから、子どものときにした行動や自然と出た言動は「本能」であろう。
その「本能」を隠すために、あるいは反省し変えるために、教育を受けたり、経験したりして自分で調整し、大人になったときの性格と性質を獲得するのだろう。もちろん、親の教育や生活環境などにも大きく左右される。
「そうやって生きてきた」という経験則が、現在の自分を形作っている。
私はどこかのタイミングで生来の明るさが「駄目だ」ということに気付く経験をしたのだろう。それでは生きていけないと気付いたのだろう。それが由来で誰かを傷つけたり、自分が傷ついたりしたのだろう。
もちろん、人の性格を形作る要素はこれだけではない。
もっと深層的なコンプレックスとか無意識領域のトラウマとか複雑に絡み合っているに違いない。
人を変えるのは人だし、これから変えていけるのも人で、自分自身でもある。
変わらないでい続けることがいかに難しいことかわかる。
人は「変えられてしまう」可塑性の生き物だけど「変わることのできる」可塑性の生き物でもある。気付きや経験が大事なのだ。そしてそれを受け入れられるかどうか。
自分がどう変わっていくのか、どう変えていくのかを楽しみにしている。
そういうモチベーションで、私は暗く世界を見つめている。変わろうとして観察している。そういうことにしといてる。