実家へ帰ると、なんとも居心地の悪いものだった。
家族仲が悪いとか、壁に大きな穴が開いているとか、庭に巨大な仏像が鎮座しているとか、そこら中に虫が湧いているとかそういう居心地の悪さではなくて、友だちの家に遊びに来たときのような、「自分の居場所ではない」ところに来てしまったという落ち着くことのできない居心地の悪さだ。
それだけ引っ越したアパートは私の身体に馴染んでしまったのだろう。
つくづく、ああ、新しいところで生活をしているのだなぁ、とおもった。
実家には実家のにおいがある。
フローリングに染み込んだ亡き犬たちのにおい(おしっこを漏らしたにおいが染みついてしまっている)、ソファに漂う猫のにおい(最近おしっこを漏らしたらしい)、実家で使っている洗剤のにおい、お風呂場のにおい……
懐かしく、思い出深いにおいだ。
実家は海辺の町にある。駅を降りたとき、マスク越しでも潮の香りがし、自分の体の隅々に行き渡って、帰ってきたのだと実感した。懐かしさよりも、帰巣本能の感覚を覚えた。
もはや居心地の良さとかそういうものでもなく、なんていうか、ひじょうに馴染む。
魚が水を泳ぐように、コアラがユーカリにしがみつくように、マスターがバーにいるように、私にとって自然な場所にちゃんと戻ってきた感じがする、そういった類の身に馴染む感覚だ。
そう思えるのは、この街で育ち、この街を出ていった、そういうことなのだ。
電車で一時間ちょっとの場所にある実家。
「帰ってきた」と思ってしまうそのことが、ここがもう私の場所ではないということ教えてくれる。
駅前の風景も変わり、向かいの家も建て替って知らない人が住み、家電が増え、変わったものと変わらないものが混在している。
あとで海へ行くけれど、思い出の中の海よりも現実の海はもう少し汚いかもしれない。
魯迅の『故郷』を思い出す。
美しい故郷はもはや記憶の中でしか存在しえないのかもしれない。でもそれは当然のことだ。私はこの街を出て行き、ほかの場所で暮らしているのだから。
街が変っていくように、私自身も変貌を止めることはできない。
たとえば、ほんのすこし、家族へ優しくできるようになった。
実家を離れたことで、母と妹を慈しめるようになった。
変化は寂しくもあるけれど、マイナスなことばかりではないのだ。
街は住みやすくなり、向かいの家の家族は楽しそうにバドミントンをし、新しい家電は暮らしを良くしていく。