本はずっと手元に置けて一生楽しめるものだから安い買い物だとも考えられるが、購入に際し金銭は発生するわけであって、その金銭は日ごろの血と汗と涙の労働によって得た対価なので、いくら安いとは言えどもその数百円、乃至は数千円にはある種の怨念、のようなものがこもっていると思うと、はたして衝動的に買った本を最後まで読まない、あるいは読まずに積んでおくというのは、自分に対して・または御金を払ってくれた人に対しての冒涜なのではないかと強迫的な観念を抱いてしまう人もいるかもしれないけど、そんなことはない。
本なんて買ってそのまま読まなくたっていいのだ。
本を買うタイミングと読むタイミングが同じでないといけないなんて誰が決めたのだろう。
私はウンベルト・エーコの『薔薇の名前』を二年くらい積んで放置していたことがあるが、それは買うタイミングと読むタイミングが異なったという最たる例だ。
そのとき欲しいと思ったらすぐに買うが、同時に別の本も読んでいるし、勉強しなきゃいけなかったり、掃除機をかけなきゃいけなかったりして、なかなか本を読む時間が作れないことがある。
『薔薇の名前』は分厚く、文字も小さく、しかも上下巻だし登場人物も多く難解だった。
買ってから読みはじめるまでに2年かかった。
その2年のうちに、犬が亡くなり、大学を卒業し、就職し、父親が死に、恋人と同棲をはじめ、コロナウィルスがパンデミックを起こした。
さまざまなことが起こったものだ。
そのさまざまだった2年かけて、読む覚悟ができた私は、一か月かけてなんとか読み終えることができた。
いずれ読むかもしれないからとりあえず買っておこう。
本とは出会いで、一度離れたら二度と手に入らなくなることだってあるから(たいていはタイトルを亡失するなどして)、気になったら、ちょっとでも欲しいとおもったら買うといいだろう。
本を買うタイミングと読むタイミングは異なるし、また、読むタイミングと「読み切る」タイミングも異なると私は考える。
読みはじめたものの難しすぎてよくわからなくなったり、あまりぴんと来なかったりして、ページを閉じることがある。
挫折、と人は言う。
だけどそれは、厳密に言えば挫折というよりも、「まだ読むタイミングではなかった」ということになる。
そういうときはなにも自分の理解力の無さに落ち込んだり、無駄な金を払ったと後悔するのではなく、とりあえず本棚にしまって、また何年後か何十年後かに来るであろう読むタイミングを待てばいいだけなのだ。
賞を獲ったり絶賛されている本の面白さがよくわからないと、なんだか自分が劣っているのではないかって気分が塞いでしまうこともあるかもしれないけど、そんなことはなくて、たとえば誰しも似合う服と似合わない服があるように向き不向きがあるものだし、カントの『純粋理性批判』は世界を変えた一冊だけど読破して完璧に理解した人なんてこの世に数えるほどしかいないのだ。
「まぁ、また今度読めばいいか」程度におもって、飾ってみたりすればいい。
本はインテリアにもなって便利だ。
もしも読むタイミングが結局取れず、たとえば死んでしまっても、棺桶に入れてもらえばいい。
本はよく燃えるから。