いつものように日曜日の夜、私と恋人は気分が沈んでいた。
とてもつまらない気分になっていた。
ほとんどすべてのもの ──善悪白黒雌雄大小問わず── は腐ってぐずぐずに溶け、クジラの臓腑みたいなニオイが漂っていた。
ひとしきり「月曜日」と「土日の終わるはやさ」について罵詈雑言を飛ばし、労働の苦痛を想像して私は「キャァーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!」と叫び、腰を落として両手を張り出し「どすこい。」とつっぱり部屋を行進、呪詛を唱えて細い細い柱を鉄砲で押した。
恋人はそれを、どこで覚えたのかわからない うす暗い目をして見つめていた。
見つめていたというか、私のことを目で追いつつも、たぶん私の背後に透けて見えるこの世ではない世界を見つめていた。
わたしたちは、こころが、おわってしまったのであった。
ぐたりとソファに横たわっていても仕方がない。私たちは生活をしなければならなかった。夕飯を作らなければならなかった。
私は水菜でサラダを作ることにした。
レシピを調べるのも億劫だったので、完全に勘を働かせて気の利いたサラダを作ろうと思った。
水菜を5センチくらいに断つ。玉ねぎを薄くスライスする。ツナ缶をあけ、落花生を砕いたものを合わせ、水菜たちとボウルに入れて和える。
雰囲気で、オリーブオイルを入れる。たぶん小さじ1くらい入れたが、直接どぼっと入れたからよくわからない。なんかとにかく水菜に艶が出るくらいだった。
塩・コショウ・レモン汁を少々。
ここで言う「少々」は少々と断言するには少し多いくらいの量だ。
それらを和え、味見しつつ塩が足りないと思えば塩を入れ、コショウをもう二振り追加し、レモン汁をそのまま舐めて顔をしかめてみたりした。
そうしてサラダは完成した。
なぜだろう、サラダが完成するころ、私の心は落ち着きを取り戻していた。
野菜を淡々と刻み、落花生の殻を剥いて指で砕き、和えて味見をする中で「美味しいものを作ろう」という一点のみに集中して雑念が消えたことで、心が落ち着いたのだ。
実際にサラダも美味しく作れた。
料理には人を喜ばせたくてする料理と、自分が楽しみたいための料理と、それから、ストレスを発散するための料理があるのだ。
料理を作り上げることで心がすっきりするのはなぜだろう。
荒んだ心がなぜか充実感を得て滑らかに丸くなる。
目に見えて成果物ができるということ、素材が人工的な料理に変貌すること、そこに自分の力やセンスや努力を誇示できる気がしていて、自分にすこし自信が持てるのだ。私は美味しいサラダを作ることができるんだ。ダメ人間じゃないんだ。そういう自己肯定感をあげて、落ち着いた心を取り戻せるのかもしれない。
恋人も肉巻きを作ってくれた。甘辛くて美味しかった。
「肉で巻いたら心が軽くなった」と彼女は言う。
料理はただ腹を満たすためだけにあるのではないのだ。
それを知っているから人間は料理をするのかもしれない。
(一部の猿も料理をするらしい)