蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

人に会わなくなる理由

としたときに過去の間違いや、現在の自分の観念とはそぐわない過去の行動・言動を思い返して嫌になり、ああ、死にたいとか思う。

最近気づいたのだけど、たぶんこれ、自分が死ぬまで続くんだろうな。

なんなら死ぬ直前、病床でも「ああ、あの時なんであんな心ないことを言ったんだろう」って後悔してるかもしれない。そうなる前に終末医療で薬物投与してすべての思考を奪ってほしい。

 

 

なんかこういうのって、これも最近気づいたんだけど、「近頃会っていない人」に対して抱く傾向にある。気がする。

「近頃会っていない人」って、親友は除いてだよ、たとえば社内研修で短期間一緒に過ごした同期とか、高2のときだけ同じクラスでたまーに一緒に帰ってたあいつとか、同じ図書委員で半期一緒に係をした女子とか、卒業以来会っていないサークルの友だちとかのこと。

ようは、あまり心の繋がりはなく、まれに「元気にしているかなぁ」と思いを馳せたり、年賀LINEを送り合うくらいの仲のひとたちだ。

なぜかそういう人たちには、部分的に鋭利な過ちを思い出して、すらりと心を裂かれるような痛みが走る。ほとんど自傷だ。

なぜだろう?

よく会うひとや、親友 ── どんなに離れていても・会っていなくても、心と言うより魂が繋がっていて、久々に会えばその前に会った時の続きみたいに笑い合って話せたり、なにも話さない沈黙の時間を大切にできるひとたち ── にはあまりそういう後悔を感じないのに。

 

たぶん、会わない時間の方が長くなると、その人の情報が自分の中で更新されなくなるのだ。

実際のその人自身のことよりも、「自分の中のその人」っていう、半分は自分の自我みたいな、主観的に見つめた他者(しかも「私」の成分により肥大化している)であるその人と思い出の中で対話するしかないから、必然、自分自身を見つめる時間が長くなってしまうのだろう。

自分の中にいる思い出の中のその人は、ほとんど自分みたいなもので、私は実際のその人について考えているのではなく、その人との関りの中にいた自分のことを考えているんじゃないか。

だから、自分を見つめ直してしまって、終わらない後悔がはじまるのだろう。

それはある意味自己中心的で独善的だ。

 

 

コロナ禍のなかで恋人以外の人間と接触しなくなり、「会わない人たち」が増えてきて、後悔の時間が多くなった。

どうして、どうして、どうして。

時間は戻せないし、傷ついた心も、傷つけた心も、永久に修復できないのかもしれない。

もっと私は言葉に慎重になるべきで、想像力を持たなければならない。

できることなら人と関わることを止めて口をつぐんでいたほうが世界のためだ。

そんなことを考えはじめてしまう。

「それはある意味自己中心的で独善的だ。」

こんなことを書かないと自分を正当化できないほどに。

本当の脅威とは、過去からやってくる。ああ、弱さだそれは。それこそが。

 

 

対人関係の悩みのワクチンって、逆説的だけど人との対話しかないのかもしれない。

あまりにも言葉足らずに会っていないから、その人が何を言っていたか、どんな声をしているか、どんな目であったか忘れてしまって、思い出の中の彼らは私をとことん恨む醜悪な存在になっていくのだ。

だから会わなければならない。

とは言え適切なディスタンスを保って。