蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

建築物とアイデンティティ

築物は人間が作ることのできる最も大きな芸術品だ。

私は建築物が好きで、毎日家に住んでしまうほど愛しているのだが、有名な建築家のことや建造物、設計思想についてはほとんど何も知らない。

ほとんど何も知らないが、奇抜なビルや珍しい建物を見ると、「ああ、いいなぁ」とか「入ってみたいなぁ」などと感嘆してほれぼれしてしまう。

 

 

彫刻とも違う巨大な作品。

作品なのに中に人間が入ることができて、遊んだり生活したり仕事をしたり、営みをする拠点となるのは、おもしろい。

街の中に巨大な彫刻みたいな作品があって、その中にわいわい入って行くとテナントが並んでいたり音楽が鳴り、絵が飾ってあったり、ベッドが置いてあったりする。時には十字架がかかっていたり、はらわたをさばいて手術していたりもする。

建築物は当たり前のようにそこにあるけれど、当たり前の眼鏡をはずしてよくよく考えてみればこんな不思議な性質の作品もないと思う。

 

建築物は、ただそこにあるだけでは完成しない。

人が営みをしないと建築作品として機能しない。人が手を加え、管理し、使っていかないとすぐに朽ちて廃墟になってしまう(廃墟は廃墟の良さがあるけど)。

実用と芸術を兼ね備えた究極のデザイン物。現代アートは鑑賞者が参加してひとつの作品になる体験型のアートが多いけれど、建築は太古からそれをやっている。建築の場合はまず実用があったわけだけど、そこにデザインが加わったとき、実用を兼ね備えたアートになった。

生活する私たちもまた、建築作品の一部なのだ。

 

 

そこに住み、あるいは務め、生活の一部になるといずれ愛着が湧き、あるいはその建物が地域の誇りとなって人々のアイデンティティにもなりうる。衣食住はそもそもその地域の人々のアイデンティティの一部分を規定しうるものでもあるのだ。

ノートルダム大聖堂が火災に遭ったとき、人々は聖歌を歌い祈りをささげたと聞く。

首里城が燃えたときも、手を合わせて涙を流す人を見た。

これは、地域を代表する立派な建築物が人々の誇りでもあり、アイデンティティでもあったことのひとつの証左であろう。

アルベロベッロのトゥルッリ白川郷の合掌造りやガウディの建築など、歴史の積もった建築物はそこに住む人々の心を構成するひとつのパーツになる。なぜなら、建築が生活環境を規定しうるからだ。

 

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アルベロベッロのトゥルッリ

 

だから伝統的な建築って大切で、ぐちゃぐちゃな、どこの地域でもないような、どこにでもあるような建造物に住んでいると、伝統的に受け継いできた、なにか精神の一部のようなものが欠けてしまい、集団で生活しながらも地域としてはひとつひとつの家族ごとに孤絶していくような気がしてしまう。

とはいえ、安全基準の高い家屋であることも大切だからすり合わせは難しい。

 

自分の住む家に、地域に誇りを持てるような建築物、それを心の内に持っておきたいものだ。