蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

チャットモンチーの「染まるよ」を聴いたら自分を信じられなくなった

ャットモンチーの「染まるよ」を聴きながら(本来チャットモンチーは爆音で涙を流しながら聴くべき音楽だが、この日はしっとりと、我が家の慎ましく可愛らしいプレイヤーで聴いていた)、この曲の思い出を恋人に話した。

 

youtu.be

 

チャットモンチーの最高傑作のひとつとも言える記念碑的なこの作品。本当にいい曲だよ。素晴らしいバンドだった。

この曲はおれが高校生の頃に好きだった子が、好きな曲だったんだ。

だからこの曲聴くと高校の帰り道を思い出すね。今はノスタルジックになれるけど、フラれたすぐの頃はまともに聴いていられなかったんだよね。あの子のこと思い出しちゃってさ。ああ、やっぱり好きだったなぁって。もちろん今は、切ないだけの思い出だよ。

懐かしいなぁ。いい曲だなぁ。

 

そう語って、恋人がへぇ~と相槌を打ってくれたのを見て、しかし待てよ、と自分の中でその甘酸っぱい思い出を顧みた。

 

高校生の頃、私には好きな女の子がいた。たしかにいた。名前も思い出せる。

その子にはきちんと、真正面からフラれた。それも覚えてる。人生では成功体験の裏で失敗体験がその倍の数くらい必要とされている。私はあの経験をそう捉えている。

そこまでは事実で間違いない。

 

だけど、あの子ははたして「染まるよ」が好きだったろうか?

その確信を急に持てなくなった。

 

別に「染まるよ」が好きなんて言ってなかったのではないか?

私は「染まるよ」が好きな女の子を好きになりたかっただけなのではないだろうか?

この曲を聴いてあの子を思い出したのは単に、あの頃チャットモンチーをよく聴いていたからではないだろうか?

私は「染まるよ」が好きな女の子を好きになりたかっただけなのではないだろうか?(大切なことだからもう一度書く)

「染まるよ」が好きな女の子は、良い。チャットモンチーが好きな女の子はたくさんいるけど、その中でもやっぱり「染まるよ」が好きであってほしい。なんとなく。私の気持ちが悪い好み。でも誰しもそういうのありますよね?ね?!?!?

 

私は粘着質で根深い、ほとんど業みたいな妄想をいつしか「経験」と捉えて捏造し、思い出に書き換えていた。

 

自分で自分が恐ろしくなった。

もうなにひとつ信用できそうになかった。

こんなこと、あるんですね。

なんとなく、虚言癖の人の気持ちがわかった気がする。って、もしかしたら私は虚言癖で、今ようやくそれに気付いたのかもしれないのに……。何も信じられない。全部嘘かもしれない。我思う、故に我あり、の我すら信じがたい。

 

しかし、愕然とする私に恋人が言った。

 

「私も、『染まるよ』大好き。いちばん好きかも」

 

私が信じられるのは、信じていたいのは、恋人だけだ。