これからある飲食店の描写をする。
このお店がどこにあるのか、いつ私は行ったのか、うまく思い出せない。
いや、そもそも、このお店が実在するのかも怪しい。ずいぶん昔に夢の中で見たお店なのかもしれない。あるいはテレビの中で見たお店かもしれない。流れる景色の中に偶然見つけたその店のパッとした印象をずっと覚えていて、記憶を捏造しているのかもしれない。
あらゆる意味でその店は不安定で、いつ私の中から消えてもおかしくないので、こうして文章に残すことにする。
その店は峠にあった。
アスファルトはひび割れ、空はいつも乾いていて、隣の山が迫って見えるような、由緒正しく荒涼とした峠だ。峠の丁字路の正面にその店はあった。
屋根裏部屋のついた三階建ての、いちごミルクみたいなピンク色の木造建築だ。もちろんペンキは所々剥げ、壁に大きく書かれた店名も色褪せてよく読めない。正面から見ると、屋根は片側の壁から下がるような造りで、一般的に屋根と聞いて惹起される二等辺三角形のかたちではない。直角三角形の屋根だ。だから建物全体で見ると、偏った五角形をしている。
奇妙なその飲食店は荒涼とした峠にまったくそぐわない。
変なところに唐突に建っている山小屋が冬の盛りになるとスキー客でにぎわう白樺林の素敵なロッジになる、みたいなことがあるけれど、その店はいかなる季節でもその場所に建っているにはそぐわないし、また、どんな場所にあっても馴染むことができなさそうだった。
砂っぽい砂利の敷き詰まった(管理上砂利を敷き詰めてるのではなく、土地を空けたら砂利が出てきたかんじ)駐車場は広く、店先にはすこし古い喫茶店によくあるKEY COFFEEの紫色の看板が誰かの忘れ物のように立っている。もちろん、ソフトクリームのオブジェもある。だけどそのオブジェを見てソフトクリームを食べたくなる人はいないだろう。先端は割れ、はねた泥まみれで、みすぼらしかった。誰からも愛されていないソフトクリームがあっていいわけがない。
店先に色褪せたメニューが張ってあるが、ほとんどが色褪せて読めなかった。
自信なさそうに「OPEN」と札がかかっているが、カーテンで覆われて中は見えない。
いろいろ迷った末、店に入った。美味しいかどうかではなく、単純な興味だった。
中は汚れてもいないが綺麗でもなく、明るくもなければ暗くもない。椅子と机がいくつかあり、ソファ席は無い。さすがに埃の積もった椅子は無いが、明らかにこの木のテーブルのセットではないパイプ椅子やIKEAの品のないプラスティックの椅子が置いてあったり、配列の縦と横が揃っていないから全体的に雑然としている。
キッチンの奥から、薄手のサテンぽい布地のTシャツを着た、やたらに太った老婆が出てきた。黒髪の僅かに混じった髪は寝癖がつき、見るからに不機嫌そうで、「どうして来たんだ?」という顔をしているもんだから、間違えて他人の家に迷い込んだのかと思ったほどで、私はとりあえず頭を下げた。
テキトーな席に座り、メニューを見ると、どれも文字がかすみ、劣化して色が飛んでいる。「コーヒー」「ナポリタン」くらいは読めた。だけど、どれも注文をする気にはなれなかった。おばあさんは水もよこさず、こちらの様子を冷蔵庫の影からうかがっているばかりで。
メニューの隅に、子どもが描いたらしい天使の絵がひどくかすんでプリントされ、店内の壁の小さな本棚にはいくつか絵本が差し挟まれていた。
昔は、この店も盛況だったことがあるのだろうか?
あのおばあさんのお子さんがこのメニューのイラストを描いたのだろうか?
「どうして来たんだ?」という睨みを、彼女は冷蔵庫の影からこちらに利かせていた。
テーブルの表面はぺとぺとしていて、古い木材とニスの甘いにおいがした。椅子はかたく、どちらかの足がやられていてグラつき、座っているよりも立った方が楽そうだった。
結局、なにも注文せずに店を出た。
おばあさんは最後まで何も言わなかった。
ほんとうはとっくに閉店していたのかもしれない。あれは民家で、私は不法侵入をしていくつかあるうちのテーブルに掛け、メニューに思いを馳せた変な人なのだ。
それにしてもあの店が人気だったことなんてあったのだろうか?
振り返らずに峠を下った。